認識における美術史-16
ジョルジュ・ド・ラトゥール作品「悔い改めるマグダラのマリア」及び岸田劉生作品「道路と土手と塀」における原時間の流れ
前回、認識における美術史-15において、エトルリア美術-テラコッタ彫像の「瞳」表現と諸星大二郎作「妖怪ハンター」、その主人公である稗田礼次郎の「瞳」の、それぞれの「瞳」表現に着目した。その瞳は認識において、原時間における異相空間、また光り現象を見詰める「瞳」であり、作者の他所的、他者的自己の投影された表現であると考察した。
我々は、三次元現象下での現今「現時間」を認識における住処としつつも、その三次元現象界と時間平面(二次平面)に共通である、三つの根本法則下(複合空間構造、二重否定構造、超対称性)における原時間に通底し、「美」という認識の状態を日々に創り出しているのである。
例えば神であると言い云々であると言い、それ等すべての事柄は、認識における「あれこれ」であり、注意深くその「あれこれ」を判別してゆけば、それらは認識その事の中に、構造における法則として理解しうるのである。
「美術」及び「藝術」に関すれば、こうも言い換えられるであろう。
絵画、彫刻は物質その事によりつつ「美術」「藝術」なのであるが、この時空間の変移と均衡を通し、その本質は法則を基とした「美」という認識の状態であり、その継続と変移であり、物質の中にはないのである、と。
それらの証左を求めての試みとしての「認識における美術(史)」の考察でもあるのだが、今回は、まずジョルジュ・ド・ラトゥール1635~40年作品「鏡の前のマグダラのマリア」とも称される「悔悛するマグダラのマリア」(ワシントンナショナルギャラリー)を考察してみたい。
深夜、テーブルの上の燭台の明かりのもと、恐らくは化粧箱と思われる小物入れに左手をおき、右手で頬杖をつき、テーブルの上にある鏡に映る自分を眺めるしどけない女性が、ジョルジュ・ド・ラトゥール作品に顕著なキアロスクーロ、明暗で描かれているのだが、ロウソクの明かりを中心に淡い褐色の濃淡に描かれる室内は、そのまま女性の衣の襞の陰影や柔らかな肌の表情、またキャンバス画面右下に行くほど暗さの中に人体が溶け込み、一体となるような表現となっている。
空間の明暗表現と、室内の小物やマグダラのマリアの衣や顔の表情が、同様の筆触表現の中にあり、リズムの統一感を感じさせる。
そのため、「暗」から現れる「光り」として、全てがあるような描かれ方の作品なのである。
このキャンバス地に油絵具で描かれた「マグダラのマリア」作品は、同様の作品が数点数えられ、当時のローマ教会の反プロテスタント活動として、「悔悛」には「赦免」を、との布教活動に合致し、推奨された題材であったとされる。
しかし、女性のしどけない有様とその姿に合わせ統一された室内の明暗の雰囲気は、それだけが作品の評価をなしているのではない事を物語っているようであるが、この作品には、それ等認識における「あれこれ」を越え※1「暗」から現れる「光り現象」が、「美」という認識の状態、その生成のリズムのもとに観られるのだと考えてよいのだろう。
キリスト教図像であるとともに、この作品には女性像の、その室内表現との統一的調和の中に、近代個性とは異なるものの、ジョルジュ・ド・ラトゥールの他所的自己、他者的自己が参入した「異相空間」と「光り現象」があるのだろう。
また更に、一視点内における絵画には、表現素材と手段の物質性の故に、動性が停止した印象「時間の停止」状態が基礎としてあるが、より深く三次元現象下に「時間の停止」状態表現とするためには、根本法則下における更なる自己意識の往還運動、その振幅の細やかで大なる参入が必要となるだろう。
その観点で観ても、この丹念に描かれた物質感を通し、空間が光り現象として統一されている表現には、(ジョルジュ・ド・ラトゥールの表現意欲としても)充分に女性の有様と化してある「時間の停止」を観ていいのではないだろうか。
さて前回、「認識における美術史-12」において、岸田劉生作品「野童女」1922年(大正11年)を考察した。この表現の中に、岸田劉生の緻密な写実描写と東洋的、水墨的空間性を併せ持つ研究を観るとともに、「野童女」には異相空間と自在に浸透する自己意識(自己自我)が、そのままあるのではないかと考察した。
今回は、同じく岸田劉生の作品「道路と土手と塀」1915年(大正4年)を考察してみたい。
関東に目立つ赤土の坂道がキャンバス画面下方向から登りあがり、左に切り石の土台を持つ白塀が、右側にはわずかな空き地に続き、切り立った土手が描かれ、左右の目線を閉鎖しつつ、ごく自然に目線を登坂の頂上とその向こうの青空の描写へと誘う。
青空の、ちょうど目線の先には淡い白雲が、これもリズミカルに、更にその向こうへと、目線を動かして止む事がない。また赤土の坂道に写る木々の影も、観えない実体(木々)を強烈に想像せしめる周到な描写になっている。
この「道路と土手と塀」は、観る者のイマージュを絶え間なく「描かれてあるその向こう」へと動かし続ける作品であり、意図的に自己意識の自己自我から、他所的自己「異相空間」
へと自己意識の往還運動を動かして止まぬ風景画となっていることが判る。
ここで考察したいのは、岸田劉生の緻密な写実描写なのだが、この表現-描写が、どのような認識行為においてなされているかを考えてみれば、ジョルジュ・ド・ラトゥールのようにキアロスクーロによって際立つ物質性によるところの「暗」から現れる「光り現象」と「異相空間」表現とは異なっていると判断してよいのではないだろうか。
赤土も白塀も土手も緻密な描写ではありつつも、筆触が青空-「空間」と同じ調子であり、私には赤土も白塀も土手も物質性が、統一的な「空間(認識)」として観れるのである。
ビンセント·ブァンゴッホ描く、人も教会も、オリーブの木々も渦巻く星々や大気(空)も、等しく絵の具のタッチと化している事とは似ていつつも、この岸田劉生作品では、全てが「空間性」を帯びているのではないだろうか。
注釈※1の通り、水墨や書においては「輝きその事(光り現象)の中に影を求める」のだが、岸田劉生は油絵具を用いて、自覚的に光り現象「輝きその事」と※2「異相空間その事」に迫っており、それらが「生成のリズム」のもとに観られるのだと考えたい。
また、この自己意識の往還運動を他所的自己(異相空間)に引き込み続ける事、その事に認識を集中せしめる結果に、絵画に基礎的な「時間の停止状態」とは異なる、自己意識のさらなる深い振幅を認められる、近代作家の独自表現としての「時間の停止」表現もあると考えたい。ジュルジュル·ド・ラトゥール作品と岸田劉生作品。
今回取り上げた作品に共通することは、現今「現時間」において通常の身体的感覚による認識ならば、空間性と物質性は必ず異なる性質をもって表現されるだろうところを、統一的に表現している事にある。
自己意識の往還運動の原時間への深い振幅を伴う参入が、不可欠であるだろう。
ジョルジュ・ド・ラトゥール1635~40年作「悔悛するマグダラのマリア」及び、前回の「認識における美術史-12」の考察とは異なる描法(認識)によりつつ、岸田劉生1925年作「道路と土手と塀」に、認識行為の中に繰り返される「光り現象」と「異相空間」にたどり着くことを観た。
これらを東西の実作品の中に考察したことで今回は終了したい。
※1
以前の考察「東西藝術表現における認識の初端の傾向と原時間についての考察」に、我々は水墨や書において「輝きその事」の中に「影」を求め、西洋は主に油彩画において「暗」の中の物質的表現を通路として「光りの輝き」を求める、と考察した。詳しくはこの論考を読んでいただきたい。
※2
「認識における美術史-12」において、岸田劉生作品「野童子」には、その表現の複合性を根拠として、自己意識の往還運動における自己自我がそのまま異相空間へ参入していると仮定した。今回取り上げた岸田劉生作品「道路と土手と塀」の統一的空間表現においては、自己意識の他所的自己(異相空間その事)が観られると判断する。
岸田劉生は日本近代作家(絵画)において、佐伯祐三同様、自己意識の往還運動の振幅の激しい一人と考えられる。(また、この事が神経衰弱をもたらす一因とも推測できるのではないだろうか。)
あとがき
以前も書いたが、自分独自のメモ資料等は別にして、この考察では、取り上げた作品の画像は添付していない。「女房奉書」なども、パソコン上で確認できるの他、資料としてはpc上にも観られる作品を例として考察しているので、ご興味のある方は、カタログなどを含め調べていただきたい。
お知らせ
次回、認識における美術史-17は「アンリルソー及び谷内六郎作品における原時間の流れ」を予定。絵画のそぶり-干渉点の制作と交互になる予定です
2023年5月27日
絵画のそぶり制作者 岩渕祐一