認識における美術史-8マンテーニャ「キリストの昇天」及びフリードリヒ「氷の海」における原時間の流 | 岩渕祐一鎌倉日記のブログ

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認識における美術史―8

アンドレア・マンテーニャ「キリストの昇天」及びカスパー・フリードリヒ「氷の海」「海辺の僧侶」における原時間の流れ

 

前々回、認識における美術史-6において、透視図法による三次元的緻密描写にも、原時間における認識を基としたマイナス表現のあることを注釈した。

今回は、15世紀半ば、アンドレア・マンテーニャ作「イエスキリストの昇天」キリスト教絵画と19世紀初頭のカスパー・フリードリヒ作品「海辺の僧侶」「氷の海」を、この観点から考察してみたい。

マントヴァの宮廷画家マンテーニャが1460年頃制作したとされる「イエスキリストの昇天」(フィレンチェ、ウフィツィ美術館)は、横長の板にテンペラで描かれ、現状、三翼祭壇画の左翼に位置している。

磔刑に処せられたイエスキリストが雲に乗り、光背のような天使たちに囲まれながら昇天する様を、聖母マリアを中心とし弟子たちが取り囲み、地上から見上げている。このキリストの聖伝を描く絵は、地上部分の人物とその左脇に崖のように高く迫る小山と、恐らくはオリーブ山であろうか中景の山―地上部分、そして昇天するキリストの描かれている、画面の上に行くほど碧みを増す空-天部と、大きく二つに画面が分かれている。

透視図法を駆使する中、山崖や、弟子たちと聖母マリアの仰ぎ見る姿勢をフォルムとして強調し、衣の青、黄色、赤の補色によって、その動性を補い、これら人物像を全体にイエローオカ―色の山が隈取り、更に画像を浮かび上がらせている。天部分に描かれた昇天するキリストの左右には、白雲が左右に空間を広げるように描かれ、空ー天の蒼穹の丸みを想像させる。

画像を浮かび上がらせる隈取りの工夫と言えば、天使のキリストを取り囲む光背と、空との境界にも隈取りがあり、昇天する様を目立させ、強調させている。描き分けられた二つの領域、地上部分と空-天部分は、作者マンテーニャの意識が集中する聖母マリアと弟子たち、及び天使たちに取り囲まれながら昇天するキリストと、その強調させたい画像のための背景とに分けられるとも言えるだろう。

では、この作者の意識の集中する昇天するイエスと聖母マリアと弟子たちの表現には、他所的自己による異相空間や他者的自己の投影たる光り現象はあるであろうか?確かに異相的な特集空間であり、また、輝きによって背景から際立っているが、私の認識を他所的イマージュへ誘うかというと、それは違うようである。

私のイマージュは常にキリスト教図像に固定され、他所的、他者的自己への往還運動をおこすことはないからだ。

前回、認識における美術史-7において、歌川広重作東海道五十三次図を宿場空想空間を楽しむための疑似異相空間と考察した。

この「イエスキリスト昇天」画は、透視図法と仰角法、仰ぎ観る角度の強調表現により、ごく自然にキリスト教図像ー聖伝と教会ヒエラルキーの中に、観る者を導くために緻密に計算された表現であり、※1疑似異相空間及び疑似光り現象と考えてよいだろう。

ここで、ドイツロマン派の画家と呼ばれるカスパー・フリードリヒ(1774~1840)の作品「海辺の僧侶」1810年及び「氷の海」1824年を考察してみたい。

大気の表情表現によって水彩的な滲み、動性も感じさせるような「海辺の僧侶」作品と「氷の海」に観られる三次的緻密描写とでは、一見すると異なる印象を受ける。しかし、作品の表層的印象が異なるという事を別にして、この二作品は共に、描かれている景色とは異なる空間を、私にイマジネールさせて留まる事がない。

これはフリードリヒ作品に多く観られる光りの表現の中に、その表現を越え、画面の内側からあふれ出る他所的な光が、執拗な自己意識の動的参入によってもたらされているからと考えられる。

作り手の執拗な動的参入(往還運動)が、無意識下にある原時間における異相(他所的自己)空間表現と光り現象(他者的自己)を可能にしたのだろう。
この異相空間と光り現象は、長谷川等伯「松林図屏風」の考察と同様、深いマイナス表現であるとは考えられるが、近代的、自覚的な暗喩表現ではないとも判断でき、近代作品とは区別したい。

フリードリヒの意図する絵画空間に認識固定するための他所的、他者的マイナス表現なのである。

今回は疑似異相空間と疑似光り現象を伴った細密描写からなるキリスト教絵画(美術)、マンテーニャ作「イエスキリストの昇天」推定1460年制作と、表題としての風景の緻密描写でありつつ、原時間における認識を基としたマイナス表現が観られるフリードリヒ作品「氷の海」1824年作及び「海辺の僧侶」1810年作を比較考察した。

 

※1

認識における美術史-7、歌川広重作東海道五十三次図にも指摘したが、マンテーニャ「イエスキリストの昇天」は優れた宗教美術であり、主に現今「現時間」における認識を基とした疑似的という性質が、美術において劣るという意味ではない。同じ作家においても、例えばスケッチなどに異相空間表現が観られる場合も、十分に考えられるだろう。

 

 

あとがき

原時間における認識を基とし、自己意識の往還運動の参入による美術表現への、その他所的異相空間と他者的光り現象の現れ方には、(1)疑似的な現れ方(2)描かれた事柄、様式に認識が固定される現れ方、また近代以降、近代個性として(3)自覚的暗喩表現としての現れ方。それらは東西の別なくであるが、これら三種類の現れ方があることを、今回の考察によって明らかにできたと考えている。

これにより、美術史における時代や様式別区分とは異なり、(それはそれで正当であるが)、それら区分では検証しずらい作品同士にも、例えば認識における美術史ー1「円空とルオー作品」の考察の通り、共通項としての検証行為も、明瞭になったのではないだろうか。

 

 

 

付記

(3)自覚的暗喩表現の場合が、自己意識の往還運動の動性が大きく、それによりイマジネールの動揺も、比較最も大きいと考えられよう。

 

次回予告

認識における美術史―9

「縄文 火炎土器及びジェームスアンソール 仮面に囲まれた自画像における原時間の流れ」を予定

認識における時空間を基とし、「美」という認識の状態を考察します。

 

                            2023年3月29日

                            絵画のそぶり制作者 岩渕祐一