認識における美術史-6 長谷川等伯「松林図屏風」及びムンク「星月夜」における原時間の流れ | 岩渕祐一鎌倉日記のブログ

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認識における美術史-6

長谷川等伯「松林図屏風」及びエドヴァルトムンク星月夜における原時間の流れ

 

前回「認識における美術史-5」において、認識における時空間を基とし、自己意識の往還運動の美術制作への参入による、個人とは限らぬ制作主体の身体感覚に内部と自覚される内的イマージュの獲得経緯と、その内的イマージュの一例「陰影」を含む美術制作を考察した。

これは、認識行為を原時間における領域に広げ、認識の幅と深さを改めて考えてみる考察であり、地域、時代を越え藝術、藝術(美術)表現に原時間における認識を基とした共通項(異相空間と光り現象)を観い出す試みの美術史である。

この認識における美術の共通項を明らかにする考察によって、美術史の幅を改めうるであろうし、その共通項とは異なる人の認識における大きな変化、変革が、より鮮明にできるだろう。

そして、この「認識における美術史」は、20世紀末から21世紀を経て定理され、表現化された※1「アブセンス虚存の定理」とその「虚存」を自覚的美的暗喩表現とする「アブセンス虚在の美術」が、これまでにない※2 人の認識における明確な変化、変革である事を、補足するための考察でもある。

今回の、長谷川等伯「松林図屏風」およびムンク「星月夜」作品における考察も、時空間を基とした認識における共通項を探る美術史であると共に、それ故「虚存」と「アブセンス虚在の美術」に伴う、ほぼ21世紀に始まる人の認識における変移が、現代以前にはない事を副次的に証するための考察を含むのである。

さて、東京国立博物館収蔵の長谷川等伯「松林図屏風」を前に、多くの人がそのスケールの壮大さに、心を動かされただろう。

松林図屏風にある、何も描かれていない空白が、深みをたたえた※3「虚の空間」であることは、多くの識者が指摘している。

私も同様の考えを持つ者であり、この「虚空間」は「書」と同じく、紙面の白が、自己自我の中で他所的自己によるイマージュが内的転位した「虚」であるだろう。この空間は、認識における共通項としての異相空間であり、深く原時間に参入しえた事によって、観る者を「虚空間」として認識される、内的イマージュに引き込むのである。

また、短いストロークの繰り返しにより屏風の左右に描き分けられた群松の枝葉は興味深く、近代印象派作品における、短いストロークで描いた色彩並列による筆触表現のようでありつつ、色彩表現から水墨のモノクロ表現に内的変移を果たした明暗表現のようである。

短いストロークの繰り返しは具体的な枝葉を描いてはおらず、あたかも「印象-日の出」作品のように、枝葉の印象を想起させるイマージュを描いているからである。

中世と近代という時間の隔たりを越え、直接的因果関係でもなく、原時間における認識行為としての光り現象を基とした共通項を、この※4群松の明暗表現にも指摘しうるであろう。

エドヴァルトムンク1893年作品「星月夜」も併せて考察してみよう。

この作品の印象は単純で平坦な、画面を越えて、のびやかに広がる色面の※5「青」にある。

三分割に分けられた山(平地、建物含む)と海と空のフォルムは単純であるかのような微妙な処理によって無名性を獲得し、北欧の実景のようでありつつ、どこの景色でもなく、深く、異相空間の光りを湛えている。主に身体感覚を基とした自己自我による、※6現今「現時間」における緻密描写を避け、物象的具体性を失わせる描き方によって達成された無名性。

その表現も現今「現時間」の認識行為ではなく、原時間における認識からの表現によってもたらされる事は、言うまでもないだろう。

以前の考察に※7色彩にもフォルムにも、また線質にもプラスとマイナスの要素があり、藝術の暗喩表現にはマイナスの要素が不可欠であると指摘した。

言い換えれば、このマイナス表現とは、自己意識の往還運動が色面やフォルムに深く参入し、原時間における他所的、他者的自己による表現をなしえた結果であり、この「星月夜」は近代作家として、フォルム、色彩、線質がマイナス表現で整えられ、原時間に参入した認識により、他所的、自覚的な美的暗喩を表現していると考えられる。

併せて長谷川等伯「松林図屏風」も深いマイナス表現である事は、ムンク作品と共通であろう。

が、この「松林図」は近代個性による自覚的暗喩ではなく、水墨画、山水画様式として「松林の空間」をイマジネールせしめる美術表現なのであり、近代作品とは区別しておきたい。

以上、「アブセンス‐虚在の美術」の在り方の補足を踏まえつつ、長谷川等伯「松林図屏風」とムンク「星月夜」を比較してきた。この比較考察によって、認識における美術の共通項としてのマイナス表現の在り方と、その表現目的における相違も指摘し、今回の考察を終えたい。

 

※1

「絵画のそぶりと原時間についての考察ーアブセンスの美術」改訂増補第二版参照されたい。また公開しているブログをさかのぼってもらえれば、大部分は読めるので、遡り「アブセンスの美術」の項を読んでいただきたい。

 

※2

認識における自由な動性を担保する、純粋イマジネールである「虚存」の定理への問いのスタートを近代美術、印象派の絵画に観た。また近代以前の美術作品、「女房奉書」などに「虚存」への認識に至る基礎があることも考察している。それ故であるが、明確な自覚として表現され、具体化された「アブセンスの美術」の成立した今日の認識また美術状況は、近ー現代以前とは明らかに異なると考えてよいだろう。

 

※3

前述のとおり、この「虚の空間」は現代における「虚存」、「虚在の美術」ではない。「虚在の美術」とは自覚的暗喩表現として、また作品と観者との中間項として成立するものであり、イマジナールの絶え間のない動性を伴わなければならない。が、長谷川等伯の「松林図屏風」には、水墨表現に由来する静かな深みによって、我々を水墨山水における美的心理状態に導く表現は観られても、イマジナールの動性は観られないからである。

 

※4

近代印象派作品における物象を消すための自覚的表現とは異なり、この短いストローク表現は「書」の筆法、横ストロークの水墨的工夫より発した光り表現であると考えられる。結果として同様の印象を与えているのであろう。

 

※5

近代以前、色彩には自然現象を基とした、それぞれ(青は空、蒼穹、赤緑は大地など)

に象徴性を持ち、東西に歴史的意味合いがあるが、この認識における美術史においては、「青」、「黄」は基礎、根本の光り現象に波長の近い認識行為と捉えたい。

 

※6

一見、現今「現時間」による緻密描写のようであっても、原時間における認識に基ずく描写である場合もあるが、これは別に考察したい。

 

※7

第五考

「認識における色彩または藝術表現における原時間についての考察」を参照されたい。

 

付記

なお、この後、「認識における美術史‐9」においてアンソール同様、ムンクにも死のニュアンスがあると書いたが、そのニュアンスもありつつ、ムンクの「星月夜」シリーズにおける心情的なともいえる他所的イマジネールの獲得は、アンソールとは異なることである。

      

                                 

                           2023年3月16日

                           藝術作家/越境哲学者 岩渕祐一