認識における美術史-4エミールノルデ「描かれざる絵」及び高田博厚「トルソ」作における原時間の流れ | 岩渕祐一鎌倉日記のブログ

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認識における美術史ー4

エミールノルデ「描かれざる絵」及び高田博厚「トルソ」作品における原時間の流れ

 

自己意識、その三様体(自我、他所的自己、他者的自己)の往還運動は、認識における時空間において、その連続変移を自らの省察に表わすのであるが、それぞれの領域からのイマジネールが動的な自由性の中に自覚され、表現された時のみ、固定的な概念性を逃れうると考えてよいだろう。

この事は前回までに考察した通り、自己意識が現今「現時間」に限られ、身体感覚に基ずく「自我」意識領域に傾きすぎれば、その状態が直ちに悪いという意味はないにしても、原時間における「深み」表現や、多義的自在性には欠けるであろうからである。

今回はエミールノルデ「描かれざる絵」及び高田博厚「トルソ」作品を例に、原時間における考察と共に、イマジネールの動性と、その動性における内的ビジョンの在り方の獲得について考察してみたい。

ノルデの描いた水彩シリーズ、制作期間は1937年の退廃芸術展以降、終戦までの、彼の「Ungemalte Bilder」描かれざる絵には、赤、青、緑、黄などの鮮やかな補色対比を基に、様々な混色が、時に空間をはみ出し、ない交ぜにするような黒線のアウトラインを伴いながら大小の色面を作り、滲み、折り重なり、人々であり、花々であり、海を形作っている。

が、それ等作品群は、にじみの、混色の斑の中に、これら具体的なイマジネールを留めさせることをしていない。

作品「Kinderzug」にしても「Blumenfrau」にしても、それらは色彩や色面その事としての「深み」を観る者に迫り、我々のイマジネールを動かし続けて止まないのだ。

ノルデのタイトルに示されたイマージュはにじみ、越境する色面の中途過程で出現したかのように動き続けていることが、その形成途中のようなアンバランスな身体や花々を観れば判断できるからである。

ノルデ水彩作品は、原時間における異相空間と色面の接点よりあふれる光り現象をたたえながら、深さその事という動的、自覚的な内的イマージュの在り方を獲得していると観てよいのではないかと考えたい。

このように、表現手段その事に自らの美的感覚が表わされる場合、つまり動的痕跡に自己の感覚が投影される場合、その「動的」痕跡なるがゆえの、自己意識の往還運動が、自覚を伴いながら、絶え間なく発生し、身体的自我に「内部」という認識を作り上げるのだろう。

そして、表現過程における度重なる改変と変移に伴い行われる、自己意識における身体感覚と動的痕跡とのやり取りが、認識における美的暗喩表現の根幹(異相空間と光り現象)を伴いながら、藝術表現において「内部」感覚、※1内的イマージュという認識の在り方を作り上げていると考えられる。

ここで2023年1月末に鎌倉芸術館で開催された高田博厚展に数多く出品された「トルソ」作品を併せて考えてみたい。この「トルソ」は多くの個人名タイトルをつけられた胸像と同様、モデルとなった人体、その個々人の心の動きに沿った微妙な凹凸が、ブロンズや大理石の彫像表面に表わされた作品である。

が、これら作品は、その印象だけにはとどまらない。

以前にも書いた通り、良い彫刻は開放的な空間を観る者に体験させるが、この高田博厚トルソにおいては、重みを感じさせぬ空間の開放性と共に、この微妙な凹凸が内部に向かう視線と思索を誘って止まないのである。

よく観れば、高田博厚の手の動きの、速度を変え,止まり、躊躇しながら表面にかたどられた陰影は、「トルソ」にトルソの現時間に留まらない「深み」を与えているからである。

この陰影の深みは動的痕跡の二次性を獲得し、あたかもノルデ水彩作品における色面の滲みや線の越境のように、動的痕跡と自己意識とを行き来する能動性を獲得し、内的イマージュという在り方に転位していると考えてよいだろう。

内的イマージュ、それは自己意識の往還運動が藝術、美術表現(と表現過程)へ動的参入する事によって、自己意識の「自我」に「内部」と自覚される、他ならぬ原時間における自己意識(他所的自己、他者的自己)から創られる動的なイマージュなのである。

エミールノルデと高田博厚作品においても、原時間における認識への参入によって、認識における美的暗喩の共通項としての異相空間と光り現象を伴いながら、作品に「深み」を与えていることを考察してきた。また、それと共に※2動的痕跡の、表現それ自体への自己意識の参入が、絶え間のない意識の能動性を表しながら、近代作家としての内的イマージュを作り上げる過程を分析したとして、認識における美術史ー4の考察を終わりたい。

 

 

※1

原時間における時空間の認識を基にし、自覚として作り上げられた内的イマージュと物象との相互の動性、特には「深み」への知覚。それは、言葉を変えれば「精神」と呼称される認識の状態を含むと考えてよいであろう。

 

※2

動的痕跡(表現)その事への自己意識の往還運動の参入としては、他にノルデに観られるように個々の色彩(赤、青、緑、黄色、黒、白)や積としての色面、線描への参入、また高田博厚作品におけるフォルムや陰影への参入が考えられるであろう。

 

 

あとがき

認識における美術史ー4において、時空間における自己意識の往還運動の自覚的認識よりなる内的イマージュの考察と表現の関係を考察した。今回の考察は近代個性(作家)としてであるが、これにより「精神」という認識状態の、構造的定理としての解釈が、より明らかになったと考えている。他文献への引用、参照はタイトル等データーと著者名を明記されれば自由とする。

 

 

 

次回のお知らせ 

「認識における美術史―5」 古田織部へうけモノ及び砂澤ビッキ作品を予定(単独であるかも)している。

 

            

                2023年3月2日

                藝術作家/越境哲学者 岩渕祐一