認識における美術史-3 女房奉書及び佐伯祐三作品「パストゥールのガード」における原時間の流れ | 岩渕祐一鎌倉日記のブログ

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認識における美術史-3

女房奉書及び佐伯祐三作品「パストゥールのガード」における原時間の流れ

 

前回までの考察において地域、時代、また個別表現を越え、自己意識の往還運動を基とする認識における美的暗喩表現の共通項を明らかにしてきた。

今回は「女房奉書」という天皇や上皇の勅諭を側近の女官が仮名の散らし書きにしたため発する、その散らし書きにおける空間性や線質を佐伯祐三描くパリの街路の看板などに観られる欧文の空間性や線質と比較し、この認識における定理に基づき考察を試みてみたい。

女房奉書の特徴は文章を書く方向が一定に定まっておらず、紙面の四方に伝えるべき文章が、文節や文意事に当意即妙に散らばることにある。

現在のように右端から左端へ等、「書」としての役割空間が一定方向へ定型化され文意を伝えやすくさせる様式を持たず、空間における認識を定まらせぬことによって、仮名散らし文の自由性よりなる、紙面における美的表現が優先されているのである。

また、この手順により、女官の書き、散らばらせる文章、文節ごとに、あたかも俳句における体言止めのような意識断絶が生み出され、※1勅諭書空間全体に独立した個々の空間が発生することになる。

これは伝えるべき天皇や上皇の勅諭の神聖さを表現するための工夫とも推定されるが、女房奉書の散らし書きには、卓越した深さを持つ異相空間と他者的自己による光り現象があると判断できる。

現今の文意の伝達を定型化した「書」では表現することの難しいイマジネールの動性、自由性を観る事も、あわせてできるだろう。

勅諭でありつつ、自由に文章を散らす女官の認識よりなる美的空間でもあり、強く独立した空間でもあるため、直に勅諭イマージュでもなく、これを読む者のイマジネールが固定されず、勅諭と空間その事との間を、認識が能動的に動き続けるからである。

「アブセンス虚在の美術」を考察した論考において、純粋イマジネールな「虚存」は、作品と観る者との能動的中間項であると指摘した。

女房奉書は、このような自覚的表現としての中間項ではないが、この生き生きとした他者的空間と光り現象の動性には、「虚存」成立への道筋があると思える表現がなされているのではないだろうか。

さて、私の記憶する佐伯祐三作品は、いつも「鎌きん」での「自画像」であり、パリの街角や靴屋の古壁であったりする。が、佐伯の作品を観れば、常に女房奉書を思い出すことになる。

直近では2010年鎌きん別館のコレクション「近代洋画の名品展」での「パストゥールのガード」1925年作品なのだが、アトリエに飾った※2このポスターも参考にしながら考察してみたい。

佐伯祐三は第一回滞欧中、ブラマンクに影響を受け画風を変えたとされ、それはそれであるとして、佐伯の描く線質のブラマンクら他の画家に異なることも、パリの古びた街路に貼られた広告や店の看板などに表現された欧文を観れば、また明らかだろう。

これら作品を観る人は、優れた「書線」と等しく、物質性を失った線質の文字その事へ、イマージュを向かわせるからだ。

高架下や店の看板や建物の屋根に大きく書かれた文字は、佐伯描く古びたパリの街並みのメッセージの一部でありつつ、よく観ればそれぞれが自在な異相空間を保ち、画面に動性を与えていると判る。

これにより佐伯作品における文字表現は、女房奉書の仮名散らし書きによる他所的空間(異相空間)と文字から染み出る光り現象を併せ持ち、奉書と同質の表現であると判断してよいのではないだろうか。

これら作品には※3佐伯の近代作家としての個性、自己表現がある。

と、同時に、作品に「深み」を与える※4汎個性とも称すべき原時間における認識行為として共通の暗喩表現があると考えられるのだ。

女房奉書と佐伯祐三作品を対象に、認識における美的暗喩表現の共通性を考察してきた。

地域、時代、個別表現を越え、認識行為における美術表現を仮定してよいのであろう。

 

 

※1

日月山水図屏風の考察にも述べたが、「書」においても紙面の空白がイマジネールに動性を与え内的ビジョン空間に転位するのである。

 

 

※2

印刷しなおしたものを観る事によって、作品の特徴が露わになることがある。作品の微妙な複雑さよりも、作者の顕著な意図が明確に印刷される事があるからである。

 

 

※3

2023年2月現在、東京ステーションギャラリーにて開催されている佐伯祐三展のタイトルは「佐伯祐三-自画像としての風景」である。前回の考察でゴッホ「星月夜」の注釈に、木下長宏氏がゴッホ描く「古靴」や「糸杉」は、ゴッホの自画像であると指摘している事を書いた。佐伯の場合も自己(自我)表現としての風景を描く中に、他所的自己、他者的自己による表現がなされていると考えられる。

 

 

※4

現今「現時間」に留まらぬ認識行為の継続による美的暗喩表現は、他ならぬ自己意識の往還運動の能動的自由性を表すものでもあるのだろう。

 

あとがき

自己意識の往還運動を基とした、認識における美的暗喩表現を明らかにする考察を書き進めているが、この基礎となった「絵画のそぶりと原時間についての考察」にも、幾つかの例を取り上げている。こちらも遡のぼり、参考にしてもらえれば幸いである。何時ものように引用、参照は、引用先などを明記してもらえれば自由とします。

 

お知らせ

次回、認識における美術史‐4は「高田博厚「トルソ」他及びエミールノルデ水彩における原時間の流れ」を予定。内的ビジョンという在り方の獲得と表現について

 

                      藝術作家/越境哲学者

                            岩渕祐一