昨日⁽7月27日/土)は慶応義塾大学名誉教授であり日本文化研究会の指導者である寺澤教授の「出版記念パーティー」に出席する為に慶応大学三田キャンパスに夫婦で向かいました。
寺澤名誉教授の西行を読み物は今年上梓して既に9版されていますその記念パーティーには30人の仲間がお祝いに集まりました
実は幻の門の脇に咲く浜木綿の花を観るのも愉しみでした。私が現役大学生だった頃は三田キャンパスの浜木綿の花を観る事はありませんでした。開花時期が夏休みであったので、遊ぶのに忙しく大学に行く事はありませんでした。卒業後三田評論に「吉野秀雄君と浜木綿のはな」を読み、長くを患って夭逝した歌人が浜木綿の花が好きだった事を学友が思い出し、幻の門脇に数株の浜木綿を植えたのだそうです。吉野秀雄氏は高崎市の生まれで生家は織物業だったそうです。多病に苦しみながら独自の詠風で境涯の歌を詠んだ。多数の美術鑑賞や随筆を残し、書家としても知られています。会津八一の『南京新唱』を読み、作者の会津弥一(早稲田大学)に魅かれて師事。生涯を病と戦い乍ら、良寛を愛し、万葉調を基調にした、純粋な人間への愛憐を詠む。『寒蟬集』(1947年)、『晴陰集』(1950年)などの歌集を上梓しました。鎌倉の雪の下教会(カソリック)の近くに住居し、大好きな浜木綿の花が咲き出すと、佐島に在る天神にバスを乗り継いて出かけたそうです。近くには俳人の山崎放題が居候していた、鎌倉飯店もありました。浜木綿とは神社の法具の由布に似ているの事と浜辺に咲く純白の花なので名がついたのでしょう。
これが由布です、古代は和紙が貴重だったので木の樹皮をなめした布を使用していました
これは春日大社神前の置いてある幣(大麻)です。参詣者は自分でこの法具で身の汚れを。
多病であり結核で再三喀血していた吉野秀雄氏は自身の体を汚した災厄を健康に払ってくれそうな法具を浜木綿の花にイメージしていたのでしょう。慶応大学三田キャンバスは南北に校舎が建てられ三田の丘は一段と高くなりました。
慶応大学南校舎は高層化していました、此処の土手に自生していた浜木綿は西側の演説館の石垣の麓に移植されていました。
演説館下の石垣の裾に移植されても美しい純白の花を咲かせている浜木綿
咲き終えた浜木綿は子房を膨らませていました、浮袋の様な組織の中に種子を納めて波で運ばれて繁殖します
昔吉野秀雄氏の学友が植えた浜木綿は演説館下の石垣の裾に移植され,以前自生していた場所は南校舎を拡大高層化されていました。建物が高層化したためでしょう、シンボルツリーの大銀杏は細く低くなってしまった様でした。
シンボルツリーの大銀杏は小さくなって感じましたが素晴らしい緑陰でした
大銀杏の根元は踏まれない様にベンチで囲ってしまいました。学生が丸くなって地面を見つめています。確認すると「油蝉」の死体に蟻が群がって解体して運んでいました。「蟻とキリギリス」ならぬ「蟻と蝉」でした。慶応大学三田キャンパスには二つの重要文化財があります、一つは演説館でもう一つが図書館です。図書館では「戦争と慶応大学」を展示していました。図書館脇の細道の奥には吉野秀雄の歌碑が立っていました
慶応大学演説館と福沢諭吉像
慶応大学図書館
図書館脇の文学の丘に建つ吉野秀雄氏の歌碑
図書館の 前に沈丁咲くころは 恋も試験も 苦しかりにき
そんな時代も私達にはありました。私はもうじき80歳寺澤名誉教授は既に80歳を越えました。次の目標は米寿(88歳」です。仲間を失うのは悲しい事、西行以上に長生きしましょう、誓い合って解散しました。 【了】。