3月28日(火)には栄光学園OB会による「歴史文学ウォーキング」に参加しました。午前10時に水道橋駅西口に14名が集合。最初の目的地がドーム球場の「野球博物館」でしたが、WBCの優勝記念展でドームの周囲は5時間待ちの行列が出来ていました。致し方ないので野球博物館見学は断念して西隣の「後楽園」に向かって歩き始めるとトヨタ自動車を経て日中友好会館前に出ました。雨降りでしたので、休憩を兼ねて「日中友好会館美術館」に寄りました。
東京ドームに在る野球博物館に向かったのでしたが、WBC優勝展示で長蛇の列が出来ていました。
14名もの老人が突如閑散とした美術館に入るのは気が引けたのでしたが、美術館は大歓迎してくれました。「日中友好会館」は戦前、満州国留学生のための学生寮を運営していた「財団法人満州国留日学生輔導協会」が、終戦により解散、1953年5月23日付をもって設立された「財団法人善隣学生会館」が、同協会の残余財産と学生寮運営事業を引き継いだものです。1972年の日中国交正常化により、両国の交流は各分野で急速に深まり、1973年からは中国人留学生の派遣が開始され、受入施設の充実の必要性が高まっていきました。1980年に、両国首脳会談で2年後の国交正常化10周年を目指して日本側から新しい会館建設計画が示され、計画具体化の段階で財団法人善隣学生会館の土地が新会館候補地に選定され、財団法人善隣学生会館が新会館建設の事業主体に決まりました。その後、1964年には、中国語学習のための「専修学校日中学院」を併設しました。
日中友好会館ビルのエントランス入館して左側が美術館で右側がレストランでした。
昨今は習近平体制が強化され「米中関係」の緊迫化につれて民間の対中国警戒感が強まって居て一方中国民間人も日本文化には馴染みがあるもののm日本国に対する違和感も強くなっているようです。私個人は習近平中国は長続き出来ないと思って居ます。中国は4千年も昔から「天命思想」が在って、天命に反した「皇帝」を革命によって廃止し、新しい皇帝を迎える事が続いて来ました。習近平は国民によって選ばれた皇帝ではなく共産党の内部抗争に打ち克って皇帝の様に振る舞っているトップなので、インフレや失業等民間人の不満のマグマが溜まれば何時体制が崩壊するかわからないと思って居ます。そんな事態になれば世界に散っている華僑や台湾人。香港人がリーダーになって新しい体制が出来ることでしょう。「易姓革命」の伝統は生きていると確信しているのです。清朝崩壊を招いた辛亥革命も先の「文化大革命」も中国民間人には革命を当然の権利であるとする思想があると思うのです。
黄巾の乱
文化大革命は毛沢東は民衆を率いて反対勢力を粛正した運動でした。
新会館の建設は、1984年から開始され、1985年3月、中国人留学生寮(後楽寮)および日中学院からなる別館が完成し、次いで1988年1月、事務局・日中友好会館美術館・大ホール・後楽賓館・貸室などからなる本館が完成しました。
我国は飛鳥じだいから天平時代にかけて日本は中国文明を移入して、政治・社会制度だけではなく、思想、哲学、宗教、食文化、芸術など、ほぼ全ての分野にわたって中国の文化を吸収して始まりました。
しかしながら、9世紀以降、中国の文化を基礎としつつも、徐々に日本独自の文化も発展させてきました。吸収と消化が日本文化の特徴と言えますが、現代の日本と中国との間では、以下のような違いが見られます。
1,建設事業は両国政府合意の国家的事業として位置づけられ、両国政府はもとより、広く各界各層の全面的支援体制の確立のため、1983年8月31日付をもって寄附行為および理事構成の変更(政・財界並びに中国民間代表の理事受入れ)による法人改組を行い、法人の名称を財団法人日中友好会館と変更しました。でも以下の三点は根本的な違いです。日中人民の違和感は大抵が此れが原因です。
(1)まず、季候・風土が異なること。
中国は、基本的に大陸国家であり、農業も盛んですが、少数民族(騎馬民族)による牧畜も発展しました。一方、日本は、基本的に農耕民族であり、農業は皆で協力する必要があります。また、島国で海洋国家であり、また、森の国でもあります。台風、地震など大きな自然災害も多いわけですが、一方で温暖な季候は多くの自然の恵みももたらしました。
(2)二つ目は民族の違いです。
日本人のルーツについては、学問的にも未だ詳しいことは分かっていませんが、シベリア方面の北方、朝鮮半島経由、さらに東南アジアなど、各方面から様々な民族が渡ってきたと言われています。中国大陸からもかなり多くの人達が来たと思われますが、大多数の日本人の遺伝子は漢民族と異なります。因みに、日本人の血液型の40%はA型です。
此れが「古月清風」氏の漢俳(漢字の俳句)と草月流生け花の展示です。
【3】三つ目は宗教面での違いです
古代において、中国から儒教、仏教、道教などの宗教・哲学が日本に伝わりました。これらは、今日においても、日中両国の共通の文化的な基盤となっています。しかしながら、これらの宗教・哲学が日本に伝わる以前、古代の時代から、日本では、無数の神様が信仰されてきました。
でも、地政学的にも日中両国は相互に重要な位置にあります。大陸棚の埋蔵資源が対立の原因になる懸念もあれば、相互利益の源泉になる期待も在ります。対立→戦争の「愚」を避けて協調→受益の「賢」を掴む為には民間レベルの相互理解や協調が大切でしょう。
前段はこの程度にしておいて「日中友好会館美術館」で驚きの展覧会を観ました。「華韻和風」と題した「古月清風」氏の展示会です。「華韻」とは「中国の俳句」で「清風」とは草月流の生け花です。
会場最大の生け花、朝一番だった事もあって新しい花を生けさせてくれました。
季節に合わせて桜を生けてありました。
個の生け花は桜に水引で斬新なディスプレイの様な印象でした。
草月流生花は1927年に初代家元勅使河原蒼風によって創流された。自由で前衛的な作風を特徴とする生け花です。勅使河原蒼風は「いける」を「造形る」「変化る」と表現した。流派の定める型の再現ではなく、蒼風の言葉「環境から生まれたように」をもとに、時代とともに変化し、家庭のみならず、公共空間でのインスタレーション、イベント展開など、その場ならではの創作もする。舞台美術や、ショーウィンドウを彩るディスプレイデザインとしての役割なども果たしています。中国人の「古月清風」氏
が草月流生け花を学んだのは草月流が型や伝統にとらわれなくて自由で間口が広い事も在りますが、生死が循環している事等の宇宙観に共感していたからでしょう。花を伐って生けるのは切る(死)から生ける(生)行為を重視していました。こうした考えは展覧会会場の挨拶文や花伝書の引用表現にも出ていました。
古月清風氏の挨拶文
古月清風氏の日本文化への造詣の深さと傾倒を示す散文
「水が在れば水を生けて」「土が在ればつちをいける」万物に命が在ってその声を聴く行為が生け花であり言葉で表現したモノが俳句でご自身は漢字で俳句を始めたのです。「漢俳」とは何ですか?尋ねれば流暢な日本語で漢字で書いた俳句です。「絶句や律詩と違うのですか?」尋ねれば俳句は自由です。命を表現します。言われました種田山頭火も聴いたら感動した事でしょう。
【了】