昨日「梅雨明け宣言」されました。短い梅雨で嬉しくても、次は夏野菜の生育です。先週薩摩芋の苗を植えたので活着が心配です。今日妻が畑に出て診て来る予定です。昨日は七夕の笹飾りを作りました。例年庭の笹竹を伐採して短冊を用意するのですが、今年は横着して庭の笹竹に短冊等を吊るして済ます事にしまあした。と、云うのは笹竹が庭と云うより軒先に生えて居るのです。態々伐採して花瓶に活けて短冊を吊るすより生きた儘笹飾りにした方が良いと思ったのでした。横浜の米軍キャンプに中には大きな「樅の木」が自生していてそのままクリスマスツリーに飾っていましたから・・・。

早々梅雨明けしたので。早速に七夕の笹飾りをしました。

七夕の起源は「中国の行事」の「乞巧奠(きこうでん)」と思っている人が多いモノです。天の神様には一人娘が居ました。「織姫」でした。神様は織姫に婿を迎えてやろうと思います。愛娘の「織姫」の相手として選ばれた若者が「牽牛」でした。結婚して二人は楽しい日々を送る始めます。処が働き者だった牽牛は結婚を境に怠けモノに変わってしまいます。怒った天の神様は二人を天の川の東西に別れさせてしまいます。そして7月7日に夕べに遭う事を許しました。織姫星は「琴座のベガ」で裁縫や織物の仕事の星という事になります。古く中国では織女星にあやかって織物の上達などをお祈りする風習が生まれました。

今では7月7日は織物だけではなく芸事や書道などの上達をお祈りする日として続いているようです。牽牛星は「アルタイラ」です。

天の川を挟んで織姫星【ベガ】は牽牛星【アルタイラ】と引き離され七夕の夕べに遇える様になりました。

以上が一般に膾炙している中国の伝説【乞巧奠】です。乞巧奠伝説が日本に伝わったのは早くとも奈良時代でしょう。でも良く似た伝説は既に日本にも在った様です。それを知ったのは奈良の葛城古道を歩いた時でした。葛城古道は葛城山の北側を走る古道で、奈良盆地を挟んで「山之辺古道」と並んで有名な古道です。東に「一言主神社」があり西に「当麻寺」が在ります。その中間二上山を見上げる里に在るのが「棚機/たなばた神社」です。交差点にフリガナが付いて居なければ此処が七夕のルーツとは気づきませんでした。

これが葛城古道にある棚機/たなばた神社の幟です。

葛城古道にある棚機/たなばた神社本殿

私が描いた葛城古道棚機神社の七夕祭り笹飾りを川に流す図です。

万葉集の時代には、機織りをする女性のことを日本では棚機つ女(たなばたつめ)と呼んでいました。

このころ、七夕の夜には川べりで機織りをおこなう儀式がありましたが、これは神に対して、守護や豊作をお願いするためのものでした。機織りは元々、悪魔除け、お祓いの儀式としてもおこなわれてきました。それは古代の中国で武器に布を巻き付け、武運を祈ったことと繋がっています。村や都市を悪魔から守り、神様に守護をお願いする棚機(たなばた)の儀式が、現在の七夕へと繋がりました。願い事を短冊書いて笹に飾って川に流す神事は穢れを水に流す動作です。3月3日の雛祭りではお雛様に厄を乗せて川に流します。同じ様に女の子の幸福を祈って厄を川に流す「厄除け」の年中行事の始まりは万葉の時代に始まっていたのです。中国から様々な文化(漢字・仏教等)が伝来する以前から、日本では七夕行事の原型のような行事が体系的に行われていたと考えるのが妥当です。問題は「日本固有」と「外来文化を日本化した」の区別です。例えば昨今健康食品として脚光を浴びている納豆です。「糸引き納豆/水戸の納豆」は日本固有の食品です。中国の納豆は同じような発酵食品ですが、全く違います。他国に類例が無い固有の食品です。節句の多くが中国から伝来しましたが、端午の節句行事は中国伝来でも端午の節句に「鯉幟」を立てて男の子が龍の様に成長することを願う文化は日本固有の文化です。七夕祭りは中国では乞巧奠として広く祝われていたのでしょう。でも願い事を短冊に書いて笹の葉に結んで神様に届け、最後に厄流しをするのは日本固有の文化です。

鎌倉殿の13人も頼朝が亡くなって愈々佳境の「承久の乱」に向かいます七夕祭りは鶴ケ岡八幡宮に詣でる事にしましょう。

鎌倉八幡宮の七夕、七夕が終わると直ぐに「ぼんぼり祭り」次いで「鈴虫祭り」になって直に直に立秋です。

                                                   【了】