「はい、皆さん! 大変、お待たせしました。ここで秘密のスペシャルゲストの登場でーす!」
心地いい高揚と緊張を感じながら譜面台を直していた、ナカジとシュウジの手が止まった。いきなり出てきて“大変お待たせしました”ってなんだよ。
俺たちそっくり邪魔もの扱いしやがって。そもそもツグミちゃんは俺たちのゲストなんだから、紹介するのはツッタカの役目じゃないか。
ナカジとシュウジが苑長から視線を移すと、ツッタカは落ち着かない様子でぐるぐる回りながら、汗で乱れた髪をもしゃもしゃと撫でつけたり神経質にギターを抱え直したりしていて、苑長の言動に頓着している場合じゃないようだった。
顔面蒼白で呼吸も荒かったので少し心配にもなったが、変顔しながら両手で顔マッサージを始めたので不問に付した。
ステージ横の細く開けた出入口に顔を向けると、事務員が連れて来た鐘楼美すずことツグミちゃんが間近でスタンバイしているのが見えた。隙間からなので部分的にしか見えないが、衣装もメイクもかなり派手に仕上がっているようだ。
「ふふふ、皆さん突然の展開で驚いてるでしょう? なんと今日は、本物の歌手が皆さんとここにいる誰かさんのために特別にいらしてるんですよー。
僕の故郷でもある糸杉山村が生んだ実力派演歌歌手、心から故郷を愛し、故郷中から愛された歌姫と言えば、そう、あの方です!
初代糸杉山温泉郷大使にも選ばれ、デビュー曲の『涙の糸杉山だよ、おかあちゃん』は糸杉山小学校の運動会のダンス曲にもなりました。ハレのグラウンドで糸杉山を背景にお子さんやお孫さんと一緒に踊った方もいらっしゃるでしょう。
愛くるしいベビーフェイスと好対照の歌唱力! そうです、鐘楼美すずさん! です! 皆さん、盛大な拍手でお迎えしましょう!」
リングアナウンサー張りの勢いに呼応して盛大な拍手が上がると、緊張で顔を引きつらせた事務員が、腕を振るわせながらゆっくりと、20センチメートルくらい戸を開けた。
その隙間からむっちりと太く短い腕がぬっと出て、真っ赤なマニキュアの人差し指が会場全部を魔法にかけるようにぐるりと円を描いて引っ込むと、一気に戸が開き、一拍置いて鐘楼美すずさんの全身が現れた。
どよめきが起こり、さらに拍手が大きくなった。
苑長の言葉とは裏腹に、ほとんどの人が鐘楼美すずさんを知らなかったようで、一斉に目を剥いたのがステージの上からも見えたし、ナカジたちも同じように衝撃を受けていた。
頭は今まで見たことがないボリュームのウィッグだし、ちょっとした小鳥の翼のみたいなつけまつ毛を装着した舞台用のフルメイクで、特に目なんて眉毛から頬骨の上までが“目”になっている。
なにより全てがむっちりとした露出が強烈で、これがプロというものなのだろうか、色気よりも気迫のみなぎり方が凄かった。入居者が毎回の食事を摂るこの地味な食堂に全くそぐわない唐突な異次元だった。
嫣然と優雅に腰と手を振って、拍手の中、客席をまんべんなく見渡しながら、脇に退いた苑長の前を通ってステージの中央に進む。
サンダルタイプの真っ赤なピンヒールで、真っ赤なペティキュアは段差のないステージなので前の方の人しか見えないけれど、細い肩ひもで吊った白く短い縄のれんを何段も重ねたようなミニドレスは動く度にゆらゆら揺れている。
「苑長、藤川先生の息子さんが最後のごあいさつをと、来られてるんですけど……」
先の事務員とは別の職員が、会場の音にかき消されないよう、苑長を廊下に招き出して話した声が、思いがけず響いて3人の耳にも飛び込んだ。
『最後のあいさつって何だ?!』
3人は視線を交わし合った。ここにはもう居ないってこと?
「手続きとかはもう済んでるの?」
苑長は会場に居たそうだが、職員は終わっていることを告げているようだった。
風邪じゃないの? それって…… 3人とも首を傾げて互いを見つめ、改めて会場を見渡した。アキオ・フジカワは不在なのに室内も施設内も特別な変化はなく、視界に入るすべての人々も平然としている。
「忘れ物とかも大丈夫? もう少ししたら行くからちょっと待っててもらって」
苑長は職員を戻して再びステージに立つと、マイクのスイッチを確認して小さく息を吹きかけた。スピーカーが「フッフッ」という音を発すると、吹き消されるように客席は静かになった。
「ところで皆さん、鐘楼美すずさんは、実は、この中の入居者さんの元ご家族でもあるんです…… よね」
人々がざわざわと辺りを見回している。苑長に答える代わりに美すずさんは、客席の1人の男性に向かって屈託ない笑顔で手を振った。
ざわめきと歓声がその人物に注がれ、大きく目を見開いていたその男性は車イスの中で大きく仰け反った。障害があるのか体は震え、口は開いているけど言葉は出せないようで、それでも状況は完全に理解しているようだった。
看護師が傍らに行って様子を確認して体勢を直して念を押すと、他の看護師に何度か頷いて自分の席に戻った。大丈夫なようだ。
隣に座っている入居者の老女が男の腕を掴んで、もう片方の手で男の身体を支えながらステージの美すずさんに向かって振り返させる。
あれ、ちょっと若くないか? 初めて明らかになった人物を見てナカジたちは思った。
というか、だいぶ若くない? ツグミちゃんは40代の半ばくらいだから義理父なる人物は70前後もしくはそれ以上だと思っていた。
けれど、その男はどう見ても70代に見えない。ツグミちゃんと同世代かそれより少し上なくらいだ。お母さん、娘と同じくらいの男と再婚したってことかぁ?
「克之さん、どう? びっくりでしょう!」
会場が静まるのを待って苑長が喋り出した。
「今まで明かされていなかったので僕を始め誰も知らなかったのですが、実は、館橋さんと鐘楼美すずさんはご夫婦だったそうなんです。ね。
きっかけは館橋さんが仕事の関係で行かれた企業間パーティーで、ゲストの鐘楼美すずさんが歌う姿に一目ぼれされたそうで、当時はお2人とも20代の若者でしたからね。
長いファンの期間を経て、交際の末ご結婚されたんです。厳密にはご結婚を機に美すずさんは歌手を引退されたので、その時は普通の女の子に戻っていたんですよね。
克之さん、それまでは遊びも知らず、大人しくて真面目なサラリーマンだったのに、ファンになってからは公演やイベントのたびに高速で片道3時間もかけて来てたとかで……。
ねぇ、情熱的でしょう。美すずさん、ステージの上からもよく見えたそうですね」
苑長が美すずさんに向くと美すずさんは口角を上げてにっこり微笑んだ。
「克之さん、その頃はまだ、お酒もギャンブルも全然やってなかったんだよね」
苑長は受けを狙ったようだけど、客席は無表情で聞き流した。
ツッタカの話と全然違うじゃん……。ナカジとシュウジはさっきから忙しくツッタカと美すずさんと館橋さんと客席と苑長と互いの顔に視線を走らせていた。
あれほどまことしやかにツグミちゃんの事情を語っていたツッタカは、“自分は事情を深く理解しつつも干渉しない知人です”といったすました顔で、苑長の話に時折り小さく頷きながら自分の準備にいそしんでいる。
「幸せいっぱいで子宝にも恵まれたんですが、別々の道を歩まれることになってしまって……。そのお子さんも美すずさんが手塩に掛けて立派に成長されてるそうですよ。きっと、美すずさん似のきれいで利発なお嬢さんなんでしょうね」
客席の館橋さんに向かって言う。館橋さんは口元を手で押さえて何度も頷き、美すずさんも笑顔で応えている。会場は未知のエピソードが明かされるたびに、声にならないざわめきがあちこちで起きる。
「克之さんはここに来て何年になる?」
苑長が廊下に立っていたケアマネージャーに向かって訊いた。ケアマネージャーはライブには参加せず、事務所で自分の仕事をしていたが、美すずさんのパフォーマンスと会場の反応を見物しようと廊下に来ていた。
「……今年で4年です」
声だけが廊下から返ってきた。
「そっか、あれから4年経つんだ。でもまだ4年なんだね。病気になってからも長いこと1人で暮らししてたし、あの頃は身体もそうだけど、変な人にもつきまとわれてて、食べることすらままならなかったもんねぇ。
よく生きてたよ。それでも競輪とパチンコは止めなかったんだから、克之さんも大したもんだよぉ。なぁ」
ガハハハと苑長はざっくばらんに喋り続け、職員も入居者も一様に黙って座っている。ナカジたちにはテレビでしか見聞きしない話ばかりで、聴き入るとついつい口が開いてしまう。
「でも、克之さんも病気の方もかなり落ち着いてきてるしギャンブルからもすっかり離れて、っていってもそもそもここじゃ無理だしね。ハハハ。今じゃ生活のリズムも安定してすっかり変わったもんね。
そんな中、美すずさんがこうしてサプライズで会いに来てくれて、それも歌で力づけてくれるなんて、もう最高の幸せだよね!
克之さん、本当、ここに来て良かったよな! 私も感動で胸が一杯ですよぉ! さぁ、皆さんも鐘楼みすずさんの歌を堪能しましょう。
それでは、美すずさん、ハイパーテンションズの皆さん、よろしくお願いします!」
喋りたいだけ喋った苑長は最後にそう叫ぶと、満足そうにツグミちゃんと元夫に微笑みかけて、そのまま部屋から出て行ってしまった。
沈黙が戻り、慌ててナカジとシュウジは態勢を整えた。ここが本番、これで最後の演奏だ。2人は息を詰めてツッタカを注視した。
けれど、ツッタカが廊下に消えた苑長の後ろ姿を目で追ったまま動かない。美すずさんに睨めつけられたシュウジが慌ててツッタカの裾を引っ張った。
後ろ髪を引かれるように振り向いたツッタカは美すずさんにぎこちなく微笑むと、ナカジとタイミングを合わせ『レットイットビー』弾きだした。
静寂の中に、最高潮に緊張した、譜面をたどる几帳面なメロディーが流れる。
美すずさんの真っ赤な唇が小さく開くと、さっきまでの人懐っこい雰囲気から一転して、低い、憂いを帯びた少しハスキーな歌声がスピーカーから流れ出した。
普段の賑やかな舌足らずで子供のような甲高い声とは全く違う。音量は押さえられていて滑らかなのに、肚の底から、胴体全部が共鳴器になったような野太いパワーに満ちていた。
同じビートルズのナンバーなのに、今まで聞かされていたものとは全く違うものだった。包み込まれそうなくらいに滑らかで濃密な歌だ。
雑音は消え、咳払いの声もなく、皆、彼女の歌に吸い込まれていた。
♪Let it be let it be let it be let it be
誰もが昔から馴染んできた曲なのに、味わいが全く違う。4度繰り返される語群はそれぞれ異なって心に響いてくる。
2コーラス目に入って、彼女の歌声から“押さえ”が外れた。彼女にとっては標準なのだろうけど、朗々と広がる歌声に観客は全身で浸っている。
ナカジは今までと違う周囲の様子を全部無視して自分の手元だけに集中した。美すずさんの歌は練習の時とは桁違いのスケールだし、観客の反応も想像を超えている。
少しでも余所に気を取られたら手が止まってしまいそうだった。自分の責務にしがみつき、今までにない弦の硬さを指先に感じていた。
「このバンドのレベルは中島さんにかかっているのね」
何回目かの練習のときに、ツグミちゃんからさりげなく言われたのが思いのほかずっしりと心に響いた。
正統派遵守の我が意を得たりと、胆が据わりさらに練習に力が入った。ツグミちゃんが『レットイットビー』を歌うことに決まってからは、講師にも協力してもらってレッスンを全てソロパートに費やし、自宅でも手が強張るほど練習を重ねてきた。
息を詰め、ソロに突入する。夢中で練習と旋律をたどる。口を真一文字に結んだシュウジもナカジを盛りたてるように箱を叩き、シンバルを鳴らす。
身体でリズムを取り、目を閉じたまま美すずさんが口を開く。
さらに熱量と情動が増していく。
♪Let it be let it be
Let it be let it be
一般的な“let it be”の和訳は“なるがままに”だろう。そのままあてはめて聴いていても、十分成立する。けれど、彼女が放つ“let it be”からはひとつだけでないメッセージが伝わってくる。
“図らないで”“抗わないで”“流れに任せて”“ことは成っていく”
そこには同時に“しょうがないのよ”“受け入れていくの” とでもいうような、そこまで至れない気持ちを大きく包みこむ凄みがあった。
根底にあるは“愛”とか“真理”なのだろうが、実感の無いきれいな言葉ではくくりきれない、汚さも冷たさもやりきれなさもすべてのみ込んだ、泥臭くて力強い、体温のある圧倒的な包容だった。
『これってゴスペル?』
後藤君が中寄さんに振り向いて口パクで言った。
『演歌歌手って言ってたよね? まるでブルースだよ』
中寄さんも目を丸くして応える。