ツグミちゃんが去ると2人はツッタカを引っつかむようにして夕方のファミレスに飛び込んだ。
スタジオのレンタル時間はまだまだ残っていたけど練習どころじゃない。
「ツグミちゃんが若い頃歌手だった話は前にしただろ。立ち飲み屋で会ったときとかによく俺たちのバンドやライブのことを話してたんだけど、この前リベンジライブの話をしたら、ツグミちゃんの方からその時にはぜひ1曲歌わせて欲しいって頼み込んできたんだよ」
ソファーに寄りかかって、芝居くさい戸惑いを混ぜつつ1人注文したビールのジョッキを飲みながら説明する。
態度の端々に隠し切れない慇懃さが滲んでいる。2人がかりで門前払いだった話を一発でまとめてきたのだから、もう少しありがたく思ってくれてもいいんだけど。
「へー、俺たちのライブの話を聞いて突然昔の血が騒いだっていうこと? どうせお前が何かをエサにしてどうしてもって頼み込んだんだろう。元歌手のボランティアならどこでも好きな所でやれるだろうよ、なあ。なぁ、いったい何を引き換えにしたんだよ」
納得のいかないナカジがシュウジにパスを出しながら尋問口調で問いただした。
さっきのツグミちゃんの態度とツッタカの説明には明らかなギャップがあるし、力関係はどう見てもツッタカよりもツグミちゃんの方が上だ。
「そうだよなぁ、あの女が何もなくて俺たちのバンドで歌いたいなんて言うわけないわなぁ」
シュウジもゆるやかに詰める。
「失敬だなぁ、そんなさもしい条件なんかあるわけないだろう。話の流れで、どこのホームか訊かれたから花鳥苑って答えたら急に向こうからそう言ってきたんだよ。長いこと会ってない古い知り合いが入居者として花鳥苑にいるんだって。
それ以上詳しいことは言わなかったけど、今まで聞いてきた話を総合するとおそらく、いや絶対、ツグミちゃんの義理父だな」
「義理父って、別れた旦那の父親?」
「じゃなくて、ツグミちゃんの母親が再婚した相手、彼女にとっての継父だよ」
ツッタカは座り直して前のめり気味に少し声を落としてそう言うと、天然ウェーブの前髪をかき上げて感慨深く頷きながらビールを流し込んで続けた。
「ツグミちゃんは苦労人なんだよ。実の父親は幼い頃に女を作って出て行っちゃって、母親は再婚したんだけどツグミちゃんが大人になる前に亡くなってるんだ」
「へぇー」×2。初耳だ。だから?
「ツグミちゃんの母親はやり手でさ、スナックをやってたんだけど、かなり流行ってたから生活も裕福で彼女は学校に通いながら歌手になるための歌やダンスのレッスンにも通ってたんだ。
歌手になるのは子供の頃からの夢だったんだけど、努力も積み重ねてきたんだ。田舎じゃ大した教室がないから電車で通ってたんだって。学校が終わってからだからさぞかし大変な労力だったろうよ」
ツッタカの話の中にはいくつもの“たぶん”が入る。話の根拠は「本物の歌手だったなんて歌の才能があったんだね」と言ったことに対する
「んー、いくらよくても所詮、素人は原石でしょう、磨くことでより輝くのよ」というツグミちゃんの返答だけだ。
人懐っこく陽気でお喋りだけど、自分のことはほとんど語らず、何を訊いてもあいまいで簡素な答えが返って来るだけ。そんな謙虚さも健気でかわいくて、言葉にしない部分はツッタカが察してあげているのだ。
「ふーん。そんな田舎からでも歌手デビューしたのはすごいよなぁ」
シュウジが素直に感心する。
「ツグミちゃんの実力と母親の人脈だよ。でも残った唯一の家族がその義理父で、これが生活力ゼロのポンコツ男だったからな。
母親が元気なままでいてくれたら彼女の歌手生活も違ってただろうけどさ、やる気100パーセンスゼロのポンコツ義理父だから、せっかくの人脈もツグミちゃんの良さも生かしきれなくて、ツグミちゃんの希望と全然違う演歌路線になっちまったのさ。
せっかくのCDデビューなのに好きでもない演歌だったからツグミちゃんの心境は複雑だったよ。それでもあの人柄だろう、地元で愛されてあちこちから声がかかっていろんなところで歌ってきたんだ」
「で、義理のオヤジは何してたの?」
「一応、プロデューサー兼マネージャーだよ。こいつでなくてもっといい人に恵まれてたら間違いなく有名なスターになってたろうになぁ。お陰で彼女の魅力や実力も生かせなくて最後まで田舎から出られずじまいだ」
「それでも歌で親子2人、食ってたんなら大したもんだよなぁ」
のんびりとシュウジが言った。
「いやぁ、もともとツグミちゃんの母親に食わせてもらってた父親だもん、稼ぎなんて知れたもんだよ。大体、何をやってたかなんて分かったもんじゃない。温泉地で旅館も多いからツグミちゃんが時間の自由にできる仲居とかでバイトしてたんだよ」
これもツッタカの補足だ。
彼女の過去に関する実際の会話は、ツグミちゃんが演歌でデビューして持ち歌が1曲だけなこと、その曲について訊いてもあやふやな笑顔ではぐらかすこと、郷里を離れてシングルマザーとして一人娘を育てていることだけだ。
義理父や母親に関しては、立ち飲み屋で居合わせて飲んでいるとき、何気なく言った「ツグミちゃんは明るくて楽しいからこういう店をやったら絶対に流行るだろうね」
に対する「そういうのなら、私より母の方が向いてたわ」という彼女の返しをもとに推測を重ねているに過ぎない。
「仲居かぁ、あのツグミちゃんなら上手くやってそうだなぁ。チップとかもけっこうもらってそう」
シュウジがツグミちゃんの、体格の割にフットワークの軽そうな様子や迫力ある笑顔を思い浮かべて言った。
「ツグミちゃんにとってチップなんか“才能”だよ」
自慢するようにツッタカが言う。
「なるほどね、あのたくましさは昨日今日じゃないもんな。分かる気がするよ。でも、義理父はどうしてたんだ? 一緒に暮らしてて、田舎でプロデューサー兼マネージャーなんていってもたかが知れているだろう」
ナカジには田舎のプロデューサー兼マネージャーがどうしても生計を立てられる仕事に思えない。
「1人で奔走してたんだよ。母親の残した店も人脈があるから、それなりにやってはいたんだけど、所詮ポンコツよ、結局、店も潰してるんだから。実質ツグミちゃんが家計を支えてたようなもんさ」
ツッタカはそう言い切ると、満足そうにプハッとビールを流し込んだ。
何てクズなんだ。ナカジは顔をしかめた。まだ10代の小娘にすがるなんて、ろくでもないにもほどがある。
だいたい血のつながらない年頃の娘と2人きりで暮らしてたりしたら、あーんなことやこーんなことになっても不思議じゃない。
なんておぞましいクソ野郎だ。想像が広がれば広がるほど、娘・孫娘を持つナカジには怒りが込み上がってくる。
「結局、歌手としても行き詰って、ツグミちゃんは恋人だった郷里のボンボンと駆け落ちしてここまで流れて来たのさ。
逃避行はいいけど所詮はボンボンよ、地元じゃ親からもらった肩書着けて威張ってても、身ぃ一つになればただの甘ちゃんさ。
あっという間に金が尽きたところに子供ができて、途端に怖気づいてさっさと自分一人で地元に逃げ帰っちまったんだ。
残されたツグミちゃんは帰ることもできず、知り合いもいないこの街で娘を抱えて1人で生きていく決心をしたのさ。そういう積年の苦労や想いが彼女の胸の中に詰まっているんだよ……」
ジョッキを見つめて感慨深げにふぅと息をつく。
「へぇー。そのボンボンの会社って今もあるの?」
シュウジが素直に訊いた。息子も孫も男のせいか、ナカジの目にはシュウジがいつにもまして暢気に映る。
「俺から彼女にそんなこと訊けないよぉ。ボンボンの親からしたらツグミちゃんなんて売れない歌手で飲み屋の娘だろう、息子にはもっと相応しい家の相応しい娘を、てことさ」
「なんだか、昭和の昼メロみたいだなぁ。ちょっとお代わり貰ってくる」
シュウジがコーヒーを飲み干して席を立った。
残されたナカジも大きく息をついて腕を組んだ。ツグミちゃんの半生が大変だったということは理解できたけど、それとこれとは別でもろ手を挙げて協力する気にはなれない。ツッタカ1人が訳知り顔で生き生きしている。
「で、その継父があのホームにいて、その人に会うために俺たちのライブで歌うってことなんだな」
戻ってきたシュウジが席に座りながら話をまとめて言った。テーブルに置いたカップにはココアが湯気を立てている。思いがけないツグミちゃんの半生にシュウジの頭も疲れているようだ。
「何か意味が分からないよな。2人で会うのが嫌なら誰かと行けばいいのに。友達や親戚はいないの? 変に巻き込まれるのも考えものだよなぁ」
ナカジが腕を組んだまま用心深く言った。何にどう影響するのかは全く想像がつかないけど。
「デリケートな問題なんだよ。簡単に話せる内容じゃないし、親戚なんてとっくにつながりが切れてるんだよ。
義理父はツグミちゃんにとってきちんと向き合わなきゃならない過去の象徴なんだよ。ずーっと1人で娘を育ててきて、ようやく直接会える心境に至ったんだよ。
そんな折に俺たちのライブの話がきたのさ、彼女にとって最良のタイミングだったんだよ。すべて不可欠の要素で絡み合う運命なんだよなぁ」
「親父が生きてるうちにけじめをつけるためのスペシャルゲストってことか」
「あと、偶然なんだけど、苑長がツグミちゃんと同郷で“鐘楼美すず”を知ってたんだよ。それが大きかったな。
彼女の名前を出した途端、苑長が凄い勢いで前のめりになっちゃって即、その場で他の職員呼んだからね。俺もびっくりさ、ナカジの言う通り、あの苑長は本当にドラマチックなのが大好物なんだな」
「あぁ」
それで開催が決まったのか。苑長からしたら俺たちの方がおまけだろう。
「ただ、施設には義理父がツグミちゃんのことを伏せてたみたいで身内だってことは知らなかったんだわ。だけど狭い田舎だから苑長ももう何から何まで全部知ってるんだよ。俺が説明するより先に頭ん中で話が繋がって大興奮だったからね。
それは素晴らしい、ぜひ実現しましょう! って。ツグミちゃんはその場にいなかったんだけど、こっちが引くくらいやる気になってたよ。ま、そんなもんだよ」
「俺たちだって“60年越しの恩師と教え子の感動の交流”なのにな」
シュウジが思い出したようにナカジに言った。
「なぁ。だから“需要と供給”かぁ」
ナカジも応えて呟いた。ツグミちゃんは義理父に会うために俺たちのバンドのゲストになって、苑長は俺たちを受け入れることで入居者とツグミちゃんのドラマチックな再会ができる、俺たちはそのお陰でライブができると。
これも三方一両損ってことになるなのかな。
ナカジの目的は自分たちの演奏で観客を納得させることなので、演奏の場がなければ何も始まらない。
「じゃあ、ツグミちゃんはライブのどこかで登場して自分の曲を歌うってことか。伴奏はどうするの? 俺たちが今から練習するの? それともCDか何か流すとか?」
シュウジが訊いた。
「俺たちも結構レパートリーが増えたろう、その中の1曲を歌えればいいって言うのさ。自分の意向もあるけど、自分の歌より俺たちの演奏を尊重してライブを一緒に盛り上げようとしてくれてるんだよ」
「ふーん。それもなんか、少し厚かましい気もするけど」
ナカジの本音がこぼれる。
「ツグミちゃんが登場して歌ったら、絶対、盛り上がるよ。ツグミちゃんには華があるし、なにより本物の歌手なんだから。それに俺たちのレパートリーから歌うっていうのも俺たちへの気遣いでもあるんだよ。
ビートルズからいきなり演歌が始まったら変だろう、自分のためにもう1曲増やすのも俺たちの負担になるから嫌なんだよ。ツグミちゃんはそういう人なんだ。辛い部分は他人に決して見せないし、細やかに心配りをする人なんだ」
そしてツッタカはそんなツグミちゃんを誰よりも深く理解していると自分に酔っている。
「だからって、入り込んでこられるのも、なんだか、なぁ」
ナカジが口ごもる。場の雰囲気が大きく変わって持っていかれるとなると、また違った違和感が残る。
「別に、メンバーになるわけじゃないんだから。あくまで今回だけ、特別ゲストとして1曲歌うだけなんだから安心していいんだよ」
上から目線でなだめるように言ってくるのも少し引っかかる。
「で、俺たちはどうしたらいいの?」
シュウジがツッタカに訊いた。
「ツグミちゃんが歌う曲を決めたら、俺から伝えるし、スケジュールを合わせて一緒にリハーサルをやる感じかな。あ、そん時はスタジオってことでよろしくな」
まあ、そうなってくるよなと、シュウジはココアを飲んだ。ナカジも冷めきったコーヒーを前に腕を組んでソファにもたれたまま宙を睨んでいる。
2人の様子を見ながらツッタカがおもむろに口を開いた。
「で、どうする? まだ続けるなら俺、ビールのお代り頼むんだけど」