夏を思わせる日が続く5月も中頃、レパートリー6曲目の『ハードデイズナイト』が何とか形になったところでナカジは老人ホームへ赴いた。

 

間遠にならない程度に様子伺いの葉書きは出し続けているものの、施設からは正月7日を過ぎてから施設名で印刷しただけの年賀状が届いただけで、何の反応も無いなか年末のライブ以来の訪問だった。

 

 当初は1人で行くつもりだったがツッタカが自分も行くと言いだし、土壇場になって、急遽仕事が入ったとキャンセルがきたところに、入れ替わるようにシュウジから同行したいという連絡が入った。

 

「2人とも俺が言いだしたときはあんまり反応しなかったのに、結構やる気になってるじゃない」

 

 ハンドルを握りながらナカジが言うと、シュウジはツッタカが来ることは知らなかったと言った。

 

「家でくすぶっててもしょうがないし、こういう用事なら手伝うさ。あいつも自分のことはあんまり喋らないけど、仕事がなけりゃ暇なんだろ」

 

 協力というより暇つぶしの色合いが濃いが、それでも1人で行くよりずっと心強い。

 

「とりあえず、今日は苑長に進捗を話してまた演奏したい意向があることをほのめかすだけに留めとこうと思っているんだ。だからアッキィオの面会は、今日はいいかなって……」

 

 ナカジは前を見たまま言った。ツッタカが同行でも言うつもりだったことだ。

 

「全然いいよ。アッキィオもツッタカの話で時期的に教え子だって分かったんだろうけど、今さら会っても話すこともないしなぁ。

 

段の思い出もないし、担任は2年の時だけで受験組は3年の最後まで結構濃密にやってたみたいだけど、俺たちは関係なかったから。向こうだって憶えてないよ

 

俺もそう思う。あの頃は1学年で500人もいたからなぁ。ま、今日は初めての訪問だから長居もしないよ。まずは様子見だ」

 

 ナカジもアッキィオに対しては同じ思いだった。勉強も運動も平凡だった3人は、部外活動にいそしむこともなく、問題を起こすことも巻き込まれることもなく平穏に3年間を過ごて卒業していた。

 

 そんなことより、眼前の課題は苑長にどう出るかだ。

 

 

 アポなしの訪問だったが、事務員が席を外していたせいで苑長本人が窓口いたため居留守も使えず、そのまま応接室に2人をた。

 

ナカジは終始にこやかに、けれど熱くレッスン講師から受け売りの、生演奏が持つ聴き手への好影響やライブ後いかに自分たちが精進を重ねてきたかなどを語ったがようとして好意的な反応は得られなかった。

 

それでも、直接苑長に会えているこの場で少しでも前進をとできるだけ食い下がったが、“イベントとなると、業務の調整が必要、苑内で検討しないと回答できない。

 

今後の予定も踏まえて、できる時期が来たら考えましょう”と、つかみどころのない結論打ち切られてしまった。

 

思った以上にしょっぱい結果になってしまったが、断られたわけではないと気を取り直して、玄関に向かおうとしたら、「藤川先生にはお会いになっていかないのですか?」と、苑長が質すような視線を向けて訊いてきた。

 

「サプライズ演奏のダブルで先生を驚かせたいので、それまでは遠慮しておくつもりなんです」

 

 振り返ったナカジが営業スマイルで応えると、苑長は表情を少し硬くしたまま口をつぐんだ。

 

「ま、今回は想定内だ。これからだな……」

 

 玄関を出たナカジが大きく伸びをして呟くように言うと、終始黙していたシュウジは励ますでも貶すでもなくそうだなと応じた。

 

互いに無言でクルマに向かって歩いていると、どこからか「すみませーん!」と女性の声が飛んできた。

 

周りに人がいないので自分たちのことかと立ち止まって声の方を見ると、若い女性介護士が2人に向かって走り寄って来るのが見えた

 

「前にビートルズを演奏された方ですよね」

 

 軽く息を切らして言う。

 

「そうですが」

 

 ナカジが答えると、若い女性介護士は満面の笑顔中庭に向けて手を振って叫んだ。

 

「先生ぇ、やっぱりそうですよぉ。どうぞこちらへ、奥の中庭にテーブルがありますから。向こうから見えた時、そうだと思って急いで先生をお連れしたんです」

 

 彼女が手を振った先を見ると、別棟の窓越しに車イスに座ったアキオ・フジカワがぽつんといるのが見えた。

 

介護士は2人の返事を待たずに走り出すと、嬉しそうに恩師の車イスを押して戻って来て、ナカジとシュウジを中庭へと連れ立てた

 

当のアキオ・フジカワはあまりうれしそうには見えず、どちらかといえば、戸惑っているような印象さえ受けた。

 

「先生、よかったですね。どうぞイスをお使いください。お昼までまだ時間がありますから、先生とゆっくりしていってくださいね。時間が来ましたらお迎えに来ますね

 

 女性介護士は3人の様子を意に介すことなく親切そうな笑顔のま、なにかありました近くの職員にお声かけください、喉に引っ掛るとよくないので飲食はご遠慮くださいと一方的に言うと、誰にも何も言わせないまま走って戻ってしまった。

 

 残されたナカジとシュウジは仕方なく、それぞれ離れて放置されていたプラスチック製の白いイスを持って来て恩師の前に腰を降ろした。

 

シュウジが持ってきた日陰にあったイスは隙間に雨水が残っていたようで、ズボンに染みた冷たさで立ち上がり、逆さに振って手で拭ってから座り直した。

 

……お久しぶりです。高2の時先生のクラスだった中島則夫です。先生もお元気そうでなによりです

 

 今回の責任と、ぎこちない笑顔をつくりながらナカジが口を開いた。「同じく砂尻修司です」とシュウジも続ける。フジカワ先生はギロリと2人を見て少し頷いた。

 

2人が教え子で、昨年末にボランティアで来て演奏したことは分かっているようだった。

 

「気持ちのいい中庭ですね。ね。あれから俺たち、かなり練習してレパートリーも倍に増えたんですよ。な

 

 一つひとつ、シュウジを巻き込んで話し続ける。シュウジも愛想良く“ああ”とか“うん”とか応じている。

 

週に2回は3人で集まって練習しているんですよ。な。レパートリーも1人1曲ずつどの曲か決めて。ね。それで俺は『抱きしめたい』でシュウジは『ストロベリーフィールズフォーエー』を選んで。ね。どうですこの2曲、先生はお好きですか?」

 

 フジカワ先生は黙したまま左手で右手を収めるように押さえ、厳しい目で見つめ返すだけだった。

 

話の意図が分からないのか、何か気に入らないのかナカジにはよく分からなかった。時おり左手に握るタオルで拭う先生の口元は唾液で濡れ、喋ることはかなり難しく覗える。

 

改めてあの時の憤りは相当だったのだと思うすこぶる居心地悪いが、恩師への思いを再演の理由にしている手前、早々に席を立つわけにはいかない。

 

「シュウジはなんで『ストロベリーフィールズフォーエー』にしたと思います? 奥さんが好きな曲だからなんですって。

 

先生、俺たちと同じ学年にいた佐川万里子って憶えてます? 先生の受持ちクラスにはならなかったけど英語は3年間先生に教わったそうですよ。な。

 

で、その佐川万里子さんがこいつの奥さんなんです。な。付き合い始めたのは1年の体育祭からだっけ?

 

 ナカジは努めて明るい口調で、恩師との交流というより間が空くのを恐れて話し続けた。シュウジも同様なのか、嫌な顔もせずつき合っている。けれど、フジカワ先生は万里子のこと全く憶えてないようだった。

 

そうだよ。お前もよく憶えてるな。で、お前は、どうして『抱きしめたい』にしたんだっけ」

 

 シュウジがナカジに話を向けた。テーブルの下で覗いた腕時計は数分しか経ってなく、建物の中はこちらを関知しないまま人が行き交っている。

 

「だって、日本でのビートルズは『抱きしめたい』から始まったっていうし。来日した時の騒ぎは凄かったですよね

 

 日本公演に関する映像は今でも事あるごとにテレビで放送されているから反応がでると思ったが先生の表情は厳しく無言のままだった

 

……実はさ、これ、初めて言うんだけど、いつだったかな、放課後たまたま音楽室を通りかかったら、ギターを弾きながら歌っているのが聞こえてきてさ、中を覗いたら高森俊樹が音楽室のギター『抱きしめたい』を中川由美子に聞かせてたのさ」

 

 先生にというよりシュウジに向けて話し始める。

 

「へー」

 

 初耳だとシュウジが高い声を上げた。「2人でか?」。

 

そう、2人きりでだよ。もう、“ザ・青春”だろう! 先生も憶えてられるでしょう、高森俊樹と中川由美子ですよ。俺たちと同じ2年の時同じ先生のクラスだった。

 

窓から夕日が差し込んでてさ、こっちは偶然、通りかかっただけなのに何か変に緊張しちゃって2人に気付かれないよう急いで離れたんだけど。

 

その風景がずーっと心に残ってたのさ。お前には万里子さんがいたから分からないだろうけどさ。俺なんか地味だし全然もてなかったからな」

 

 その風景がいつのまにか薄れて消えていたこともその理由も最近になって気付いた。孫の瑠奈が生まれたからだ。

 

「へえ、そんなことがあったんだ。それにしても高森は全部凄かったなぁ。絵にかいたような超優等生だったよなぁ

 

 シュウジも高森を思い出して今さらのように溜息混じりに感嘆して言った。背は高くて顔もいい、剣道で全国行って、成績もトップで生徒会長やって、性格も地頭もいいときてたからなぁ。非の打ち所がないヤツって初めて見たよ。不良からも尊敬されてたよなぁ

 

 そうそうと頷きながらナカジがフジカワ先生に語り掛けた。

 

先生憶えてますよね? 国大に行った高森と小柄で優等生の中川ですよ

 

 フジカワ先生は2人のやり取りを追うように、視線を動かしていたが、表情は硬いままだった。

 

確か、高森は霞が関に行った後、数年で辞めて仲間と会社を興したって噂だな。その後はあんまり聞かないけど。中川由美子もいたなぁ勉強できたし、わりとかわいかったよなあの2人、付き合ってたんだ」

 

「実際は知らないけど、そんな噂もあったよ」

 

うちらの高校から一期校に行くやつなんてまずいなかったもんな。ねぇ、先生

 

 シュウジも同意を求めたが、先生は自信なさげにわずかに首を傾げただけだった。

 

ツッタカは『ハードデイズナイト』ですって。あいつ、今でも警備員で働いているんですけど、内容が自分の生活そのもの、自分を歌った歌だって言ってますよ。この前ボーカルで歌ってた津田隆史ですよ

 

 思い出せない昔話は恩師も辛くなるだろうと、ナカジが話題を戻した。

 

「そうそう。ブルーカラーの叫びだってな。でも、実働って言っても週2日、3、せいぜい4日だろう?」

 

「ああ。でも労働者の生きざまが全て出だしの“ハードデイズナイト”に集約されているんだってだいたい洋楽なんてそういうもんだっていうのがあいつの弁だ

 

 ははは、いかにもあいつが言いそうだよなと、2人は先生に笑いかけようと視線を向けると、フジカワ先生はそれまでと一変して、考えに集中するかのように額により深い皺を刻み、声を絞り出そうとしていた。

 

……ツ……タ、カ……」

 

 初めて見る反応だった。瞳に力が宿り、遠い記憶を引き戻そうとしているようだった。

 

「そうです、ツッタカです! 津田隆史ですよ! あの“変わり者のツッタカ”ですよ。この前のライブの時、真ん中で歌ってたその男です! 見た目はかなり変わったけど、中身は今も相変わらず変なままですよ」

 

 先生の様子の変化に気付いたシュウジが勢いづいて言った。

 

「ツ……」

 

 先生は全身から絞り出すように名前を言うと、ふうとため息をつくように車いすにもたれて考えに沈んだ。何かのとっかかりを見つけて探りまくったことは伺えたが、どういう収穫を得たのか、または得られなかったのかは分からなかった

 

 2人が無言のまま恩師を見守っているところに、先ほどの介護士が迎えに来た。2人に礼を言って食堂に向かう途中、追って出て来た別の職員に先生を託すと、踵を返して2人のもとに走って

 

「お話しはいかがでした?」

 

 無言で苦笑する2人を見て、申し訳なさそうに続けた。

 

「突然お連れしてすみませんでした。普段から表情も活動も乏しい方だったので、つい、おせっかいを焼てしまって……。

 

お気づきの通り、先生は脳梗塞の後遺症で記憶障害と言語障害がありまして奥様が言われるには、憶えていたという記憶はあるそうなんですが、肝心の内容はかなり消えてしまってるようなんです。

 

強いインパクトのあることもおぼろげだそうで…… 細やかなできごとや、問題がなかった生徒さんほど消えてしまっているそうなんです。

 

だから、先生の反応が薄くてもお気になさらないでくださいね、それは、いい生徒さんだったという証なんですから

 

 ナカジもシュウジも自分を憶えていないことにショックはなかった。けれど、自分たちと同じようにこれといって優秀でも不良でもなく、家庭にも問題がなかったツッタカはそうでなかったことが心に引っかかっていた

 

自分たちから見ても“変わった奴”ではあったけど、1年間だけの担任だった教師にどう映り、どういう印象を残していたのか…… それはナカジにもシュウジにも想像し切れなかった。

 

 


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