仕事納めを明日に控えたどん詰まりだからどこも一杯かと懸念していたが、そもそも午後4時に入れる店は限られていて、おそるおそる引き戸を開けると、まばらに座る普段着の客が小皿の肴熱燗を飲んでいるという、平時とさして変わらない光景が広がっていた

 

正月飾りもなく、古びたお品書きが並ぶ壁はタバコと網焼きの煙で変色したままで、ねっとりと油染みた温かさもいつも通りだった

 

 畳敷きの小上がりにあがって荷物を置き、座布団に尻を据えて、突き出しとともに出された熱いおしぼりでぐしぐしと顔を拭くと、タイミングを合わせたように3人の口から「はあー栓が抜けたように声が洩れた

 

「オヤジさん、生! いいだろ、生中3つ!」

 

 しぼんだままのナカジとツッタカに声を掛けながら、そこまで疲弊してないシュウジが身を乗り出してカウンターの中に叫んだ座り直しながらその勢いで会話の口火も切る。「アッキィオには驚いたな」。

 

 アキオ・フジカワこと英語教師の藤川昭男は昭和生まれの生粋の日本人だが、授業開始“起立、礼”の代わりに「グッドゥモーニングゥ エッブリバディ アイム アッキィオ・フッジカゥワ ハウアーユー?」と、ランダムに生徒を指して返答させるのが恒例で、その独特の巻き舌を揶揄した“アッキィオ”“アキオ・フジカワ”が生徒内の通称となっていた

 

「ああ、えらい爺さんになってたな。てか、今でも完全には一致してないんだけど、あの頃のアッキィオっていくつだった

 ツッタカが応えたが、ギアはまだローだ。

 

「確かまだ20代だったよ。俺たちが卒業する時でも30にはなってなかったんじゃないかなぁ。高校生の目からしたら30代はもう“おっさん”だったからな。

 

その点、アッキィオはアニキって感じで若かったよ。独身だったし。でも、卒業してからは全然会ってなかったなー。同窓会もあんまりやってなかったしな……

 シュウジが答えた。

 

「俺はずっとだけど、デパートで見かけたことがあるよ

 

 ナカジが店に入ってから初めて口を開いた。「遠目だったけど、奥さんと中学生くらいの息子の3人で何か選んでた。初めて見たけど、大人しそうな普通の奥さんと息子だったなぁ遠い記憶を手繰りながら言う。

 

「俺が結婚前だったから…… それでも40代にはなってたのか。それなりに歳相応だったけど、あんまり変わった印象は受けなかったな」。

 

 加代子とデートしてたときで、先に気付いたナカジが加代子に何も言わずにそそくさと店から出たので買い物途中だった加代子が変にいぶかしみ、つい正直に説明したら、私を日陰者扱いするのかと、さらに怒ったことに感動して強く心に残っていた。

 

加代子とは職場恋愛で、初めてできた彼女だったこともあり、気の強いところもかわいく感じていたころだった

 

「同窓会は幹事が呼ばなかったんだろう。性格もあるけど、教え方も下手だったし授業もつまんなかったから、真面目なヤツらがかなり嫌ってたからな」

 

 ツッタカがおしぼりをたたみ直しながら言った。

 

「80代、いって半ばか……。言葉も出ないし、体も不自由そうだったな」

 シュウジがさっき見たままの姿を思い返して言った。

 

「相変わらず、向こうっ気が強かったなぁ」

 ツッタカが呟いた。「最後まで強気のままきたんだな……」

 

全力で絞り出したのがあれだからなぁ」

 改めてナカジの声沈ん俺たち、そこまで……」。さすがにひどかったんだ”までは口にできない。

 

 ドン、と、3つのビールジョッキが目の前に置かれた。

 

「はい、お待ち!」

 カウンターのオヤジが自ら持って来て、愛想もなく叫ぶとさっさと奥に引っ込んだ。

 

「とにかく、乾杯だ」

 空気を切替えてシュウジがジョッキを2人に回す。「ジョッキでよかったよな」。

 

「何でもいいよ」

 ナカジが力なく両手で掴みながら言った。

 

 初めてのライブでアドレナリンは大量に放出されたけどその反動なのか、恩師からのダメ出しが隠れ引き金となってなのか、場を離れて冷静になると、自分でも理解しきれない、残尿感のような緊張と疲労のもたれが重く、テンションはダダ下がりに落ちていた

 

「お疲れ、乾杯!」

 シュウジが叫ぶと、ツッタカとナカジも低く繰り返してジョッキをぶつけ合った

 

ってやっぱ “はー”って言っちゃうなぁ。どんなときでも“生”はうまいなー、体中に染みてくよぅ

 

 シュウジがそう言うと、呑めるだけ一気に流し込んだツッタカがくたびれた顔に少し生気を取り戻して言った。

 

俺たち、かぁなりぃ、やっちゃったな! ビートルズだからっていうのもあったろうけどさ、手ごたえも結構よかったしさぁ、観客とのエネルギーの交換っていうの? あれは演者ならではの味わいだったな」

 

 本当に満足そうだ。お前、本気でそう思ってるの、とナカジが驚きと呆れの目を向けた。

 

みんな喜んでたし、練習以上のことができてたじゃん。シュウジのカホンもいい音出してたよ

 

 ツッタカそう言うと、お通しのワカメと竹輪の和え物を箸で摘まんでいたシュウジがえへへと照れ笑いした。まんざらでもない顔だ。2人があまりに楽しそうなのでナカジはさらに距離を感じる

 

俺たちは全部パワーコードで、シュウジはドラムじゃなくてカホンだし、そのカホンだってどこまでできてたのか不明だし、お前の歌はクセが強すぎる上に歌に力が入る分、それでなくても怪しいギターがさらにボロボロになっちゃって……。

 

そもそもお前は練習しなさすぎなんだよ! 何が練習以上だよ!”とは、さすがのナカジも言えず、代わりに不服そうにビールを押し込んだナカジの気持ちを察したのか、ツッタカが口を開いた。

 

「そもそもさー、考えても見ろよ。一日講習に行ったのが9月の終わりだろ、10、11,12、まだ3カ月ちょっとだよ。

 

そっから始まって今日の成果は十分すぎるほどだと僕ぁ思うね。いやホント、立派なもんだよ。ナカジのソロだって前の頃よりずっとよくできてたじゃん

 

 指を折って数え、うんうんと自分の言葉に自分で頷きながらシュウジに同意を求める。「なあ、観客もみんな楽しんで聞いてたよな」。

 

 何で、レベルも練習量も自分よりはるかに劣るくせに、上から目線で言ってくるんだ。ナカジは呆れてジョッキを置き、小さくため息をついた。

 

シュウジはニヤニヤしているだけだけど、どちらかといえばツッタカ寄りのようだった。何だよ、シュウジまで。

 

「アキオ・フジカワのは聞いてた人たちの正直な感想だよ。実際アンコールもなかったじゃん露骨につまらなそうな顔する人もいたしさ……。

 

歳とか病気のせいかもだけど、最初から最後まで無表情の人も結構いたろう、俺、もう途中から客席を見ないようにし

 

 ナカジが一気に吐き出した。この歳でイチから始めてこんな恥をかくなんて、あまりに想定外だ。そりゃあ実力不足だし、準備期間も短かったから多少はしょうがないにしても、かなり悲惨な体験だった。

 

バンドを始めたことにうっすらと後悔していたし、少し苛立ってもいた。何で同じ体験をしてきた2人は平気な顔をしていて、事の次第を一から説明しなきゃならないんだ。

 

「そういえば、アンコールやらなかったな」

 

 今、気づいたようにシュウジが言った。「でも、十分やり切ったし、あれでちょうどよかったんじゃない? 苑長が締めたんだから、向こうの都合だったんじゃないの」と、のんびりと続けた。

 

「苑長もすごい感謝してたし、俺たちを応援してたな」

 

 ツッタカも頷いて言う。苑長のお忙しい中急きょ来てくださりありがとうございました。これからもお元気で、より一層、ご活躍ください”は、ナカジが聞いた限りでは、社交辞令以外の何物でもなかった。

 

そりゃあ多少の未熟さは否めないさ。だけど、味わいっつーの? 良さはまた別だからな。その証拠に、終わった後、わざわざステージまできて握手を求められちゃったもんな……」

 

 むふふと、ツッタカが天井に向けて最大ににやけた。終了後、看護師に車イスを押してもらって来た老女は、端から順に握手していった。

 

シュウジに向けた言葉は聞こえなかったが、ツッタカには「偉いわぁ、お身体は大丈夫?」などと、言っているのが聞こえた。

 

ナカジにも握手しながら「大変でしょうけど、頑張ってね」と言っていた。

 

何が“大変”なのか、少しひっかかったが、適当な返答が思い浮かばず、はぁ…… とうやむやに握手を握り返した。感動というより、どことなく同情を向けられている印象の方が強かった。

 

上手い下手っていうより、俺たちのプレイを貫徹できたってことに意義があるんじゃない」

 ツッタカほどではないが、ほどほど満足げにシュウジが言った。

 

ナカジは喉と胃に冷たいビールの刺激を感じながら、2人を交互に見た。満足していることの方が不思議だった。

 

「それにさ、かなりの人が乗ってたよな

 ツッタカがシュウジの反応に自信を深めて言ったので、ナカジはさらに驚いた。宇宙人を見るような目つきだ。同じ観客を見て、こうも印象が違うか。

 

「まあ、降って湧いた話だったし、2週間で1曲増やたわけだしさ。よく頑張ったよ。初めて人前で、緊張した割にそこそこできてたよ。

 

ツッタカのT―レックスも良かったし、ナカジのレットイットビーのソロだってちゃんとできてたし。ツッタカの歌に圧倒された人もいたな」

 

 シュウジがとりなすように言った。

 

窓際に立ってたゴマ塩の小さい男だろ、真ん中辺くらいの

 目を輝かせてツッタカが言った。

 

「そうそう、セーターの袖口をずっと握って口元に当ててた」

 シュウジもよく覚えていたようだ。ナカジもその男のことは憶えている。ナカジにはツッタカから離さない目は怯えているように見えていた。

 

「それと、後ろの方にもリズムに合わせて体を揺らしてた人が2、3人いたよな」

 シュウジが続ける。

 

「ハートを打ち抜いちまったな」

 ツッタカは満足そうにつぶやいて、ジョッキを傾けた。「みんな、ノリが良かったよな。ビートルズもいいけどやっぱ、俺たちも良かったよ

 

 話しながらツッタカの勢いが増してくる。これがこいつのプラス思考か、と改めてナカジは感心した。

 

判断基準自分の設定で、マイナスなことは視界に入らず、プラスのことだけ認識していくし、どのような現象もプラスに解釈する。

 

“無表情な観客”といういわばゼロ現象でも、ナカジは“喜ばれていない”としてマイナス成果にカウントするが、ツッタカは“静かに聞き入っている”と捉え

 

さらに、わずか反応でもあればポジティブな解釈で“良い手応え加点する。

 

「お前のポジティブ思考は凄いな」

 心から感心してナカジが言った。

 

これだけ楽天的に考えられるのに、何もない人生なのが不思議し、当然な気もする。些末なことにも生真面目に向き合ってきた遇直な自分とは全く違うルートだ

 

「何だ、嫌味かよ」

 ツッタカはふいに白けて鼻白んだ。

 

「いやいや、誉めてるんだよ。初めてお前の事を心から尊敬したよ」

 ナカジの真顔にケッと吐き捨てジョッキをあおった。

 

「そりゃさ、観客全員が感動して熱狂したり、泣いたりしたらそれが最高なのかもしれないよ。だけどさ、そもそも俺たちのファン集まっているわけじゃないんだし、そうならなかったから失敗って決めつけるほうがやってらんないよ。

 

実際、全部だめなわけじゃないんだから。落語家だって、客席の中でよく笑う客を見つけてその人に向けてやるっていうだろ、受けてる人しか見ないってことさ。落語がそうなら、バンドだってそうでいいじゃん。そんなもんだよな」

 

 ツッタカがシュウジに同意を求める。

 

「始めてまだ3カ月とちょっとなんだし、それにしちゃあ、まあまあなんじゃない。犬や猫だって生まれて3カ月じゃトイレを覚えて好奇心が出てきて、やっと1匹で動き始めるころだよ」

 

 よくわからない例えだが、シュウジもツッタカの話に頷いて言った。

 

ナカジは、落語家はパフォーマンスを高めるためにそうするのであって、自分の出来や観客の真の反応を顧みないのとは違うんじゃないか? などと思いつつビールを流し込んだ。

 

でも、成長途上の未完成と考えると、肩が少し軽くなってくるのも確かだ。

 

 ジョッキが空いた順に、それぞれ別の酒に切替えた。カウンターの上に置かれたテレビからは年末恒例の騒々しい街角レポートが流れている。

 

「でもなぁ、ある程度っていうか、もっとできてると思ってたんだけどな……」

 表面張力で盛り上がったコップの日本酒を大事に一口含み空いた容量に受け皿の酒を最後の一滴まで入れながら呑み下すと、ナカジの本音がこぼれた

 

悔しい気持ちも残るし、認めたくないけど、いろんな感覚が鈍っているということ…… つまりは一番逃げたい“老い”が重くのしかかってくる。

 

「完成度なんてある意味、聞く側次第じゃん。そこにこだわり過ぎるのはナンセンスだよ。俺たちは間違いなく日々上手くなってるの。

 

今日の話が決まってからだってかなり頑張ったし、横ばいはあっても下降はなしさ。ちょっと上手くなったり、ゆっくり上手になってるってわけ」

 

 シュウジの顔もサワーで赤みを増している。今日は酔いも早いし、ライブの興奮のせいか、気持ち、いつもより声が高く明るい。

 

「あれって、ここじゃ見られないの?」

 

 ナカジが苑からもらったCD-Rを訊いた。シュウジが受け取って、いつも背負ってる斜め掛けバッグに入っている。正解はここにある。

 

年齢のせいで自己認識が事実から離れてしまっているなら、客観的に確認して修正しなければだ。

 

「読み込むやつがないから、今は無理だ。持って帰って家で見るか?」

 シュウジがバッグから取り出してナカジの前に差し出した。

 

「ウチのはブラウン管のウィンドウズ95だけど……」

 

 心配そうにナカジが訊いた。当時、流行に乗って買ってみたけど、加代子は興味を示さず、保奈美には触らせなかった。

 

インターネットへの興味もすぐ薄れ、用途もないまま結局、年賀状作成にしか使わなくなった。やがてそれも面倒になり、捨てられなくて今も押し入れに入っている。

 

「まだるの?! どうだろ、CDが入れられて、アプリケーションがあれば見られるのかな?」

 

 シュウジが首を傾げた。パソコンは仕事で必要になった分だけなんとか教わって使っていただけで、パソコン自体が好きとか詳しいわけではない。ナカジとツッタカはもっと分からなかった。

 

「捨ててないだけ。もう何十年も使ってないしなぁ、ここでもパソコンかぁ」

 ナカジの心の声が漏れた

 

「1000円くれたら新品のSDカードに落としてやるよ。デジカメがあればテレビでいけるんじゃない?」

 

「おお、さすが IT会長! デジカメなら持ってる。頼むわ」

 ナカジがホッと笑顔になった。瑠奈の誕生に合わせて買ったのがある。

 

「俺、パソコンもデジカメも無いから見られないや」

 ツッタカが淋しそうに言った。

 

規格が合えば携帯で見られるんじゃないかな……

 シュウジが自信なさげに言うとツッタカは不安な目をナカジに向けたがナカジも目を逸らしたナカジもツッタカと同じくらい分からない。

 

「せっかくだもん、3人で見ようよ」

 

 ツッタカがねだるように言った。1人でも見てもつまらないし、いまさらデジカメ買うことにも抵抗がある。

 

「ナカジがデジカメ持って来たら俺んちのテレビでも見れるんだろ?」

 

 本音を言えば自室に呼びたくないけど、2人には頼みにくいし他に適当な場所が浮かばない。

 

「新年早々、反省会か」

 ナカジが笑った自分の家では困るけど、ツッタカの家なら構わない。

 

シアタービューってやつだな。独身貴族のアパルトマンを解放するから適当に持ち寄ってやろうよ。だけど、年末年始は俺、忙しいから、その後な」

 ツッタカが腹を括って言った。

 

「上等だよ。もしテレビがダメだったら、外付けを持っていくから、そん時はこれで見ればいいから

 シュウジが自分のタブレットを見せて言った。

 

「これ」

 財布から千円札を出してナカジが言った。「さっきのやつ頼むわ。できたら早めに欲しいな連絡をくれたらもらいに行くよ」。

 

「いや、俺、明日あさってはずっと出ちゃうから合間見て送るよ。送料込みだし」

 札を受取り、笑いながらシュウジが応えた。

 

 


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