観客は延々続くツッタカのトークを大人しく聞いている。
“我慢”を深く据えられてきた世代ならではもあるが、ナカジには、出だしのT―レックスの成果にも思えた。「20世紀猫だまし」効果だ。そんな効果名はないけど。
大した中身も無いのにツッタカから目を離さない観客を見ると、ナカジも改めてツッタカの才能を認めざるを得なかった。
それでも最初の曲の前だ、徐々に人々は飽き始め、ナカジの緊張まで緩みそうになったころ、ツッタカはようやく切り替えた。
「……それでは聞いてください。『シーラブズユー』!」
ツッタカがそう叫んでマイクから一歩下がり、2人と呼吸を合わせた。
はずなのだが、初っ端、出だしのシュウジが遅れて、つられたツッタカの歌い始めもつんのめった。緊張で瞳孔が広がったナカジの“イエー、イエー、イエー”が追随する。
タイミングは合っているが、緊張とためらいが混じる絶叫に、会場の隅で入居者に付き添っていた女性介護士は、身に詰まされる強烈な恥かしさに苛まれた。
かといって持ち場を離れるわけにもいかず、身を捩るように座り直し、できるだけステージから意識を逸らして腕を摩りながら時計を見上げる。
ツッタカのカタカナ発音はシャウトというよりぶっきらぼうな全フォルテで、メロディーからはみ出た部分を、空いた間合いに棒読みのように歌い切る。
ソロボーカルなので邪魔するものはなく、原曲とは似て非なる異様な「歌」なのに妙な圧と説得力があった。
ただし、その独特な個性は演奏の稚拙さに取り込まれ、全体的に“変”な印象だけが浮き上がっている。歌に集中するあまりツッタカの手元は乱れ、演奏のまずさに輪をかけている。
懐かしい音楽を待ち構えていた人々は、想定以下の変形『シーラブズユー』に、聴き入るとっかかりを見つけられず、完全に置き去りにされてしまった。3分に満たない曲なのに、早々に持て余している。
曲終わりの拍手は明らかに先ほどより少なかった。けれど3人は客席の変化よりも、初めて人前で最後まで演奏できた安堵と次曲への気負いが強かった。演奏中の緊張感で視野が狭まっていたせいもある。
「ありがとうございます」
ツッタカは少し息が上がったままお礼を言うと、まんざらでもなく喋り出した。
「初めてこの曲を聴いたとき、シーラブズユーのシーは当時密かに好きだった女の子で、ユーは自分だとごく自然に思い込んでました。
もう、ステージから彼女に向かって歌うしかないって、文化祭に絶対出るぞと意気込んでいたのですが、上手くできた歌ですね…… その彼女が別のクラスの男に思いを伝えたということを当の男から聞かされまして。
まさに、シーラブズユーだって、ショックでした。僕の恋も文化祭も準備する前に消えてしまったという、紅顔の美少年だった頃の思い出なんですが……。
青春時代の思い出は、ほろ苦かったり、甘酸っぱいとか言うそうですが、今、こうして歌っていると、すっかり風化しつくしたみたいで無味無臭なんですよ……。
時間は最良の薬だとはよくいいますが、考えてみれば夕べの飯も何だったか思い出せないわけですから……」
今日初めて見た、どこぞの老人の古い失恋話はありきたりで、観客である入居者にはあまりにどうでもいいことだった。老齢にかけた自虐ネタも、もっと深い問題を抱える人々には“笑い”としての効果も無い。
「……そんなこんなで、今年もラストスパートに入って、仕事や雑務で忙しくてほとんど練習もできなかったのですが、こうして、皆さんに楽しさを届けることができて最高に嬉しいです! ラブアンドハッピー!」
ツッタカが満面の笑みでダブルピースを掲げた。が、“ラブアンドハッピー!”は再び冷却ブーメランとなった。苑長の冷やかな視線を向けられて、後藤くんは神妙な表情を作り、困ったように肩をすくめて目を逸らした。
逸らした目線で中寄老人をうかがうと、それに気づいた老人は、ゆっくりとステージを目で示し、ニヤニヤしたまま口を大きくへの字に曲げて見せた。
「……次は、名曲中の名曲、『レットイットビー』です。この曲はここにいらっしゃる人、全員と言ってもいいくらい、それぞれの思い出が染み込んでいる……歌だと思います。自分もこれを聞くといつも思い浮かぶのが、駅前の商店街がまだアーケードができるずっと前の……」
ツッタカは再び、落ち着いたトーンで話し始めた。今度は、昭和ノスタルジーをかき立てて、個々の思い出を呼び覚ます方向に変えている。
歌を聞かせに来たと言うより、雑談をしに来て、合間に歌を歌うのだと切り替えた方が正解なのかもしれない。何人かのお年寄りがツッタカのペースに乗って、それぞれの過去を思い返しながら、うんうんと頷いている。
「……では、お聞きください。『レットイットビー』です」
長々と街の移り変わりを喋り続け、ようやく宣言すると、ナカジと呼吸を合わせ、一緒に右手を振り下ろした。3人にとって一番自信のある曲だ。
入居者たちはゆっくり繰り出されるシンプルな前奏を見守り、記憶をたぐるように耳を傾けた。人それぞれに懐かしい曲でもある。
ツッタカのボーカルが入る。拙い以上にやっぱり個性が強いけど、かろうじて『レットイットビー』だった。
カホンのリズムが入る。やさしいシュウジはギターがずれると、そちらに合わせてしまうのだが、そんなシュウジでもツッタカの字余りボーカルだけは完全に無視している。
♪レット イット ビー レット イット ビー
レット イット ビー レット イット ビー
“レット”“イット”のトまではっきり発音する“レットイットビー”が畳みかけるように繰り返される。
歌が終わり、ナカジのギターソロが入った。仁王立ちで、噛みしめた口元も真っ赤に染まった耳を見なくても、その慎重すぎるメロディーから一生懸命なことだけはしっかり伝わってきた。
もともとスローめの切ないメロディーだが、さらにテンポは微妙だった。全体的にぎこちなく、ミスする前にかろうじてリカバーするので数え切れないくらい間延びして、4回ほど分かり易く音が外れた。ソロ部分だけ別物のようだった。
入居者は表情を変えないままじっと座ってステージをみている。
ツッタカのギターとボーカルが入り、再びのカタカナ棒歌いで曲は終わった。
拍手はさらに少なかった。パラパラと力なく鳴っただけだったが、3人は達成感と安堵感の方が大きく、拍手の意味合いまで思考が回らなかった。
ツッタカにいたっては観客がリラックスして自分たちの音楽を楽しんでいるくらいにしか感じていない。それより次のトークの山場、メンバー紹介で頭が一杯だった。
ナカジは努めて観客を見ないように、深呼吸をしながらコード譜を入れ替えようとしたが、止めることができないくらい手が震えていた。シュウジは2人よりは落ち着いていて、足元のタンバリンや譜面台を直している。
「『レットイットビー』、名曲ですよね。歌っていて、ビートルズに対する思い、ビートルズにまつわる思い出……皆さんの温かな気持ちを感じながら歌うことができて最高です。何より、皆さんに勇気と感動を与えることができて、感無量です……」
三度、ツッタカがマイクに向かって語り始めた。すっかりトークに慣れて自分と状況に酔っている。
いつものナカジならその内容に反発するところだが、今は“最後までここに立って演奏する”だけで精一杯で、余計なことは耳に入らないし、たとえ入っても脳まで届かない。
「……ここで、メンバーを紹介したいと思います。ギター、ナカジこと、中島則夫!」
いきなり名前を呼ばれ、注目を浴びたナカジはそれでも誇らしくまばらな拍手を受け、気を付けをして頭を下げた。
「カホン、シュウジこと、砂尻修司」
シュウジも立ち上がり、口を真一文字に結び、いたずらっ子のような、バツの悪そうな目線で会場を見渡して頭を下げた。
「そして、ボーカルとギター、MCをやらせていただいてますわたくし、津田隆史、略してツッタカ、です! 今日はありがとうございます。えー、3人とも小学校からの幼馴染で、元原東小学校、東元原中学、元原中央高校とずっと一緒で……」
ツッタカはこの日のために手のひらに図書館で仕入れた時事川柳や外国のジョークをいくつも書いていたのだが、いざ施設の食堂という空間に立ち、お年寄りだけの観客を前にすると、どれもそぐわないように感じられてトークに入れられなかった。
そのうえ、時計の針は予想以上に遅々として動かず、ライブ前、ナカジたちがうっとりと思い描いていたイカす“メンバー紹介”は、実際に語りだすと、各人の履歴書を読み上げるような凡庸なスピーチにしかならなかった。
「先生、元原中央高校ですって!」
介護士が勇んで横の車いすに座る老人の腕を叩いて小声で話しかけた。さっきからずっと不満そうな険しい表情だったのでひやひやしていたのだ。
先生は現役時代、元原中央高校で長く教鞭をとっていたと聞いている。これなら興味が湧いて機嫌も直るかもしれない。意固地な人で怒りっぽく、不快なことに大声を出すこともあり、なだめるのが一苦労な人だった。
脳梗塞からくる右半身マヒと言語障害のせいもあるが、元来の性格もあって、普段から職員や他の入居者と関わらず、一人ぼんやりと過ごすことが多く、それを懸念した介護士が、このレクに無理やり誘ったのだった。
子供たちのよさこいは見る意志を示していたが、急きょ変わった今回のレクには興味を示さず、参加も渋っていた手前、披露されるお粗末なステージとそれに不服を隠さない老人に責任を感じて困っていたのだ。
先生と呼ばれた老人は、前のめりになってステージに目を凝らし、その姿勢のまま「うん」と頷いて応じた。その様子を見て介護士はすこし安堵した。
介護士自身、今日のステージを見ていていつ部屋に戻りたいと言いだされるかと気が気でなかった。
入居者の意向なので言われれば退室するしかないのだが、苑長はそのようなことがあると、機嫌が悪くなって職員に当たるのが常だった。
長いトークがやっと終わり、ツッタカのギターから『プリーズプリーズミー』が始まった。本来はハーモニカだが、5弦だけを使って同じような雰囲気に奏でる。
ツッタカはギターにくっつくくらい首を折り曲げて一音一音ゆっくりと弾いている。適当にごまかしていた練習の時とは全く違い、準備の時に見たネックに書いた数字の通りに弾いているようだった。
妙な間合いはあるが、とりあえずはそれなりのメロディーになっている。
ナカジが横目で見ると、ツッタカの左手は甲とひらのほか、袖の中の手首にも文字がびっしりと書かれていて、そこだけ耳なし芳一のようだ。
が、今はそこに言及している時ではない。ナカジは改めて腹に力を入れる。この曲では『シーラブズユー』と同様、“カモン!”のコーラスがあるのだ。ギターに神経を払いつつ、マイクへに向かってスタンバイする。
なんとか曲が終わると、そのままライブも終了となった。
やる気満々でいたアンコールは求められることもなく、ひととおりの拍手が止むと同時に苑長が立ち上がって、あっさりと終演を告げたのだった。
3人は気付いてなかったが、苑長の顔には社会的スマイルもなかった。しかし、職員にとっては、文句も嫌みも無かったことがプラス要因で、プラマイゼロのセーフだった。
ファーストライブ・ジ・エンド。
中途半端な達成感と消え残った緊張が混じる変な疲労感を味わいながら、3人が出口に向かっていると、廊下の先に車イスの老人と女性介護士がいるのが見えた。
こちらに軽く会釈をした介護士を見て、3人の胸に淡い期待が沸き立った。わざわざ見送りに来てくれたのだ。
「お疲れさまでした。今日は、どうもありがとうございました」
車イスの後ろに立つ女性介護士が口を開いた。いえいえ、どういたしましてと、3人は立ち止まって笑顔を返す。
「あの、藤川先生が、ぜひ、皆さんにお会いしたいとおっしゃられて……」
「藤川先生?」
3人は車いすの老人を凝視して、一斉に記憶の中にある全ての“先生”を検索し始めた。この人が現役といったら何年前だ? 小学校? 中学? 高校? それともお医者さん? もしかして子供の先生か?
「藤川昭男先生です。元原中央高校で長く英語を教えてらした……」
表情が固まったままの3人に介護士が言った。
英語? え、もしかして、2年の時の担任の? だとしたら英語の授業は多分、3人とも3年間受けてた気がする……。
60年も前の、おぼろげな記憶が蘇ってきて、3人はさらに老人をじっと見た。先生の顔は細かく思い出しきれないが、目の前の老人とは似ても似つかなかった。
けど、目が離せない。記憶の中の教師と、寝ぐせが残る白髪の、ブランドのロゴは付いているが、洗濯を重ねたグレーのトレーナー上下に、くたびれたカーディガンを羽織った老人は輪郭も違うし、やっぱり別人にしか見えない。
老人は強い目力で、何か言いたげに、車イスに座った背筋を3人の方に伸ばせるだけ伸ばしている。
白髪混じりの眉毛は伸び放題に伸びていて、いつくものシミが浮かんだ左右の頬に深い皺が縦に数本ずつ刻まれ、向かって右側の頬の奥の大きなほくろも色あせてしなびている。
記憶に無い顔だ。けれど、なぜか、吸寄せられるまま目が離れない。
ん、耳たぶに2つほくろ? その顔の長い年月をかき分け、かき分け見入っていくと、ここまで大きくもしなびてもいないけど、たしかに同じ場所に特徴的なほくろを持つ、若くて分かりにくい授業の、不良にも物おじしない向こうっ気の強い英語教師が見えて来た。
あああ、アキオ・フジカワだ。
「先生……」
歳とったなあ。こんな爺さんになったのかぁ。それでもこの恩師はステージに立った自分たちを温かく見送りに来てくれたのか……。3人は感慨がこみ上げて来た。
「お…… ま…… え」
恩師は、必死に言葉を発しようとした。身体の状態を理解した3人は固唾を飲んで耳を傾けた。
「ら」
大きく一息つき、車いすの肘置きを握っていた左手で膝に置いていたタオルを掴んで口元の唾を拭う。
「も…… と」
タオルを戻す手でこぶしを握ったままの右手を掴んで腹の上に置きなおして、再び全身に力を入れて3人に向かう。
「……れ ……ん」
もどかしそうに舌でぎこちない唇をなぞりがら一生懸命に言葉を絞り出そうとしている。3人は先生が口から出す文字を慎重に聞き取り、頭の中で並べる。
「ひ、ひぅー、ひ…… て…… かぁ、らぁ…… こぃ!」
やっとのことで言い切ると、藤川先生はどっと背もたれに身を預け、3人を強い眼差しで見上げた。
3人は、返す言葉もなく立ち尽くした。
若い女性介護士は困った顔で、手持ち無沙汰げに4人に目線を配りながら、いたわるような笑みを浮かべるしかなかった。