無機的な鉄筋の館内は少し動いただけで汗ばんでくるほど暖房が効いていて、家とも病院とも学校とも違う湿った独特の匂いが漂っている。
物珍し気にあちこち眺めながら案内に従って歩いていくと、シュウジが言っていた通り、そこここに入居者が書いたであろう絵や習字のほか、折り紙や廃材で手作りした小さな門松や100円ショップで買ったような正月向け飾りがこれでもかと飾られていて、なるほど「保育園みたいに何でも飾っている」と妙に納得したりしていた。
会場となった食堂の壁には、「年忘れ ミニコンサート ハイパーテンションズ」と極太の毛筆で書かれた模造紙が掲げられていた。
かすれが混じる迫力ある文字で、もう1枚の紙にも同じような筆致で苑長の挨拶から始まる、今回のプログラムが曲目も含めて箇条書きに書かれている。
3人は歓迎の喜びとともに、高まる緊張感や雑多な感情が混じり、なぜかいっぱしのミュージシャンになった勘違いまで湧いてきて、頭も胸も一杯になっていた。
苑長は胸を張って、これは入居者である東証一部上場企業の元重役が書いたのだと、現在の認知症の症状なども交えながら慇懃に説明するのだが、3人の頭はすでに飽和していて、“入居者が書いた”しか残らない。
機材のセッティングは後藤くんが1人でさくさくと進めていた。
自分たちの楽器以外は全て彼が用意してくれたもので、ナカジたちは自分たちの楽器を出すと、後藤くんを手伝うこともできず、狭い舞台で邪魔にならないよう、うろうろしながら、わずかな自分たちの準備をしているしかない。
ナカジは緊張のあまり、深呼吸とチューニングを何度も繰り返し、くしゃくしゃのハンカチで手の汗を拭った。ツッタカとシュウジを見るとやはり自分たちの準備に専念していて、何か話しかけようかとしたけど結局何も言えなかった。
杖をついた老人がにこやかにステージに近づいてきて、後藤くんに二言三言話しかけた。
老人は、自分たちより少し年上のようで、言葉が出にくい上に声がこもって呂律がはっきりせず、ナカジたちは聞き取ることができなかったが、後藤くんは慣れた様子で少し聞き返して何度もうなずき、
「そうそう、ビートルズなんで、トーンを調節して少し歪ませた感じ。さすが中寄さん、楽しみにしててね」と応えていた。
中寄さんと呼ばれた老人は満足そうに顔じゅうを笑顔にして杖を握る左手に力をいれると、左足を軸に方向を変え、脚を引きずるように歩いて最前列のイスに腰を降ろした。
「中寄さんは元電気関係のエンジニアで、音響マニアだったんですよ。だから機械の知識もすごくて、音楽に関してももクラシックからポップスまで何でもありで、歴史的なことまで詳しんですよ」
後藤くんはナカジたちに向いて簡単に説明すると、繋いだギター少し鳴らしてツッタカに渡した。
「チューニングした後で何か調整したくなったら言ってくださいね」
言われたツッタカは「ああ、ありがとう」と受け取って、何度か弦を弾いてペグを少し動かすと、“うん。まろやかピリ辛”なんて言いながら後藤くんに向かって親指を立てて見せた。
次にナカジもギターを渡す。傍につっ立っていると、晴着を着せてもらう子どものようで手持ち無沙汰が気恥ずかしい。
同時に、ネットで適当に購入したこのギターがどう思われるか、妙な不安まで頭をもたげてきて、太腿裏の肉がもぞもぞしてきた。特に何も言われることなく笑顔で戻されて小さく安堵する。
ふと隣を見ると、シュウジはいつもと変わらずカホンに座ってのんびりとシンバルとタンバリンを並べて1人でシミュレーションしていた。
後藤くんに訊かれると、ひょうひょうと「カラオケボックスではマイクを入れてたけど、あんまりよく分かんないからよろしく頼むよ」と頼んでいた。「それでいいんですよ」と後藤君に言われても、「そっかー」とあっけらかんとしている。
「今日の人って、どんな人? どこにいるの?」
無遠慮な女性の地声が耳に飛び込んできた。ナカジとシュウジが顔を向けると、自分で車いすを操る2人の老女と目が合った。
近くの職員がほら、そこの人たちよ、と教えている。便宜上“ステージ”となっているが、実際はテーブルを退けただけのスペースで観客席との段差もない。
「あぁ、そうなの。なんか地味ね、電気屋さんかと思ったわ」
本人たちは内輪だけで話しているつもりのようだが、耳が遠いのか地声が大きく、悪意の無い、がっかりしたトーンが胸に刺さった。
ツッタカはいつも通りど派手なプリントのトレーナーに革のジャケットなので、言われたのは自分とシュウジだ。
これでも一番いいシャツとジャケットとズボンを着てきたのに。何かというとこのセットで、外食だっていつもこれだ。シャツは違うけど、保奈美が元夫を結婚前に初めて家に連れてきたときも着ていたものだ。
準備が進むと同時に、観客である入居者たちも続々と集まってきた。
誰もいない会場に入った時は、まばらにイスがあるだけだったので、ナカジはほとんどが年末で帰省していて、ごく少数の人しか残っていないのだと思っていたのだが、車イスの人たちが空いているスペースをどんどん埋めていき、みるみるうちに会場は入居者と職員でいっぱいになってしまった。
さらに自分たちと同年代が多いことにも驚いた。後藤くんがライブに誘うとき「同世代の演奏が……」と言っていたのをふと思い出す。
同年代を前に、高校の体育館でしようとしていたことを、これから老人ホームの食堂で行うとしている。えらく時空を経たもんだ。
さらに集まってくる人々を上目遣いで見ていると、中寄さんや先ほどの老女のように反応を見せる人は少数で、表情の無い人が多いことに気が付いた。
誘導されるがまま大人しく座っているが、不満を面に出さないだけなのがうかがえる。かわいい子供たちの代わりが初めてお目にかかる自分たちなのだから仕方ないとも思うが、後ろを向いてシュウジに
「なんか、アウェーだな」と囁くと、シュウジは「期待がないと気楽だよな」と、楽しそうに応えた。
そんな考えもあるかと持ち場に戻ってツッタカを見ると、忙しそうに、ギターのネックと手のひらを見比べて譜面台の上を並べ替えたり、手のひらに“人”を書いて飲み込んだりしている。観客云々以前といったところのようだ。
よく見ると、ツッタカの左手は甲とひらのほか、袖の中の手首にも文字がびっしりと書かれていて、そこだけ耳なし芳一のようだった。
ネックにはコードや引く順番がカラフルな数字と文字で細々と書き込まれている。カンニングもこれだけ多いと却って大変だろうに。
準備が終わり、観客である入居者が全て席に着いた頃合いを見て、苑長があいさつに立った。
「……では、みなさん、もちろん私もそうです、の、青春時代を彩ったビートルズのナンバーをお楽しみください。ハイパーテンションズのみなさん、よろしくお願いします!」
苑長が手慣れた様子で開始を宣言して、みずから拍手を促しながら去ると、ステージには3人だけが残り、広い食堂はやがて無音になった。
「ハーイ、エッブリバッディ! ウイー アー ハイパーテンションズ!」
ツッタカがいきなり両手を広げて叫んだが、大きく張り上げたぎこちない声は、見えないブーメランとなって部屋中を凍らせて戻ってきた。
先ほどまでにこにこしていた中寄さんたち数人は唖然としているし、無表情だった観客はやはり無反応のままで、ナカジやシュウジさえも不意を突かれて戸惑った。
ツッタカは何ごともなかった風を装い、落ち着いた口調に変えた。
「初めましてみなさんこんにちは、ハイパーテンションズです。今日は、俺、いや、ぼ、私たちにとって記念すべき初めてのライブでもありまして、それを皆さんの前でやらせてもらえることを、大変光栄に思っています」
ツッタカはそれだけ言うと。マイクから少し下がってギターを構え、ナカジとシュウジにアイコンタクトして、小さく吸った息を止めて右腕を振り下ろした。
会場中に、大音量のT-レックス『20センチュリーボーイ』が轟いた。正確には出だしの数小節。そして同じフレーズを繰り返す。
それまで無表情だった何人かの目に生気が宿り、体に活力が入ったのがナカジにも分かった。最後の練習の時に聞いたぶつ切りと違って、チョーキングまで響かせている。
かなり練習したようだ。レベルとしてはさほどだが、フレーズが短い分違和感も小さい。3回目のリフレインの途中から大きくテンポを落として、十分に余韻を伸ばして静かに止めた。
中寄さんと後藤青年が間髪入れずに手を叩き、それが呼び水となって会場は拍手で沸いた。満足と期待の拍手だ。ナカジやシュウジにとっても想像以上の“始まり”の演奏だった。
「ビートルズといいつつ、いきなり、T-レックスで始まってしまいました……」
少し照れくさそうにツッタカが上目遣いでぼっそり言うと、後藤青年はじめ、何人かがうふふと、声に出して笑った。
出だしはオッケー! とナカジが感じて会場を見渡すと、笑顔の人は3割から4割程度で、それ以外の人々は無表情のままだった。あれれ。
「昔、俺たち、いや私たちが高校2年だったとき、というのは今からもう60年近く前ですが、ビートルズはもう、世界中でセンセーションでしたよね。
で、何ていうか、当時はもうね、格好いい奴らほどビートルズ好きを語るというか、ビートルズを好きなやつが好きというか。
もちろん、曲もビートルズも格好いんですけど、自分たちの世界は学校の中ですからね、心理戦じゃないけど、もうね。
気になる女の子がビートルズを好むような雰囲気を醸してたりしてたもんだから、ちまちまアピールする度胸も器用さもないから、いっそのことやっちゃえってことで。
好かれたいからビートルズというか…… 目の前で演奏してアピールしようって。ね、で、文化祭に向けてビートルズをやろうと。有志を募ってバンドを組んだのですが、その、えっと、当時は……」
ツッタカは独特の間合いで、ゆっくりと聞き取りやすいよう、繰り返しながら話しているが、それは時間を稼いで持ち歌の少なさをカバーするセコい作戦でもある。
横に立つナカジは、話を聞きながら観客席を見回すのだが、何人もの無表情の人々を見ていると、足元から血の気が引いてくるのを覚えた。
耳が遠いのかもしれないし、そもそもこういう音楽に興味が無いのかもしれない。けれど、ここにこうしているのはやっぱり間違いだという思いが強くなる。やっぱり、あとからきちんと断るべきだったのだ。
とはいえ、今さら逃げ出すわけにもいかない。薄目を開けて好意的な人を探すとわずかに確認することができた。その表情を胸にしまい、以降はなるべく客席を見ないよう、譜面台と演奏に視線と意識を集中することを心に決める。
観客のお年寄りははっきりと拒否しない限り、時間中座っていられる人はすべて集められていた。
外部の人と触れ合える貴重なレクリエーションでもあるし、せっかく来てくれるボランティアに対して、閑散としていては申し訳ないという、施設側の配慮でもある。
ステージのナカジたちが観客を迎えているように、観客である入居者たちもナカジたちを迎えてあげているのである。そうした観客の中には、長い人生の中で愛想を使い果たしてしまった人もいる。
「……で、今年の夏頃かな、ひょんなことから“ハイパーテンション”なんて言葉に出会いまして。ハイパーテンションなんて言葉、皆さん聞いたことありますか? あります?
ふふ? どうですか? ないですよね? 僕もなかったんですよ。初めは変な感じがしてたんですけど、そのインパクトのある響きがずっと心に残っちゃって。
それまではごくごく普通の平凡な人生だったんですけど、ハイパーな人生ってなんだろうって考え始めたら、なぜか、高校時代のバンドの記憶が蘇ってきて、これはもう、ビートルズでシャウトだと……」
「“シャント”って、ビートルズも人工透析だったの?」
リクライニング型車いすに座った老女が度の強い眼鏡の目を丸くして、隣に座る看護師に訊いた。
あまり聞き入っている様子もなかったが、自分に近い言葉だけ耳に入ったのだろう。この老女は週に2回人工透析を受けていて、自身の左腕には、透析を受けるためのシャントと呼ばれる、動脈と静脈を結合させた処置がある。
「えー、そんな話、聞いたことないわよ。シャントじゃなくてシャウトよ」
笑いながら看護師が小声で訂正したが、女性は半分も聞かず「あぁ、あの人たちがそうなのね。だから3人ともあんなに顔色が悪いんだわ。大変なのに偉いわぁ」と感心して車イスの上で座り直した。
看護師は新たな誤解をどうしようかと迷ったが、私語を気にしてそれ以上何も言わなかった。ステージの人たちは初見で思い入れもないし。
ハイパーテンションとは高血圧のことで、どこかの医療機関でそう言われた老人が施設内で演奏中にシャウト、つまり叫びまくって倒れたりしたら大変なのだが、後藤青年が言うには、該当者は1人で、3人とも意味をはき違えていて、深刻な問題はなさそうということだった。
確かに3人ともかなり緊張しているようだけど、苑長が許可したことだし、全部で3曲だし、まあ見てるしかないわ。と、ステージに向き直った。