第八話 父の味 | 小川凛 「カマキリ」

第八話 父の味

それからしばらく経ったあと、
僕はベッドに横になり、ただボーッと包帯でグルグル巻きの右手を眺めながら、
小川の言葉の持つ意味を自分なりに考えていた。
脱衣所では小川が
汚物と精液だらけの僕の
パジャマと下着を洗濯してくれていた。
一度手洗いし、それから洗濯機に入れて…と、
意外にも慣れた手付きで
丁寧に洗ってくれていた。
僕はというと、血がなかなか止まらず、それもあってか気分がすぐれず、
ベッドに横になっていた。
幸い家に包帯があったので、それをグルグル巻きにして応急処置をした。
そのおかげで出血ももう止まっていた。
指先の痛みは残念なほど小さく薄れてしまっていた。
消化しているのか、まだ足りないのか分からないが、
ときどきお腹がグルグルなって、でもそれがとても嬉しかった。愛しかった。
まるで妊婦がお腹の我が子をさするかのように、僕はお腹を優しくさすっては

「小川の一部がここにいる」

と考えたりしていた。
それから、お互い交わす言葉もないまま、そろそろ母親が帰ってくるだろうという時間まで、いつの間にか時は過ぎていった。
小川が動き回り、バスタブもシャワーで流してきれいになったし、換気扇もずっと回してくれていたので、昼の出来事の証拠はもう
ほとんどなくなっていた。


「味…ちがうんだ……」


僕は、さっきの小川の一言がとても気になっていて、その意味を本当は尋ねたかったが、それから二人の間に会話はなく、
それどころか気まずい
冷えた空気まで流れていて、
自分からは何か、うまく話し出せなかった。

その空気の原因はきっと僕で、
さっきの出来事が嬉しすぎる反面、そこにいたるまでの突然の小川からの誘いや、
その後の手慣れた後始末、
そして最後の一言……

それが整理しきれずに
頭の中でグルグル回っていたからだった。
漠然と、ただ「何か」が許せなかった。
するとそこに何事もなかったかのようにすべての後片付けをすませた小川が、微笑みながら歩み寄ってきた。

そんな空気を察してか、小川が先に口をひらいた。

「怒ってるの?」
「なんで?」
「あんなことしたから」
「あんなことって?」
「ゲロかけた」
「怒んないよ」
「指、食べた」
「怒ってない」
「じゃあなんでそんなに不機嫌そうなの?」
「じゃあ逆に聞いてもいい?なんで急にあんなことしたの?」
「んー。二人の隙間を埋めるため?それとも誤解をなくすため?いや、青井くんがよろこんでくれるかなって思ったから?
ううん…何より私の体が、それを望んだからかもしれない」
「ゲロ食べさせたいって?指を食べたいって?」

「そう。私…変なの。でも青井くんを見てると、そんな私をきっと受け止めてくれるって思う。
でね、やっぱりあなたは私を受け止めて、受け入れてくれた。
ちがう? あっ、でもね、指を噛んだのはあくまで事故。
でも口の中いっぱいに青井くんの味が広がった瞬間、
もったいないって思った。
このまま吐き出すのもったいないって…。
ぜったい食べなきゃもったいないって、思った。
そしたらその瞬間に、グワーッて色々なこと、思い出しちゃったの。
ずっと
“忘れよう、忘れよう”
って心の中にしまいこんでた、カギかけてた記憶。
今の自分を生んだ忌々しい出来事。
その日の天気や天井の模様とかまで、色々と、全部……」

下を向いたまま、ボソボソと小川は話していた。
どうしてもその顔を、表情を見たかったが
僕には見えなかった。

「なんか…昔にあったの?」
さすがに聞いちゃマズイかな?とは思ったけれど、僕はどうしてもガマンができずについ質問をしてしまっていた。

「…帰るね?」

その質問には答えず
小川は壁の時計に一瞬目をやると、すぐに玄関の方へ振り返り歩き出した。
その背中に向け僕は質問を投げる

「最後のあの一言? 味が違うって言った、アレと、
あの一言と何か関係あんの?」
まくしたてる僕に背中を向けたまま、
言葉を返す小川。
「ごめん。また今度、
今度気持ちの整理がついたらきっと話すから、絶対話すからだから…
…ごめんなさい」

大きなはずの小川の背中が、何故か小さく見えた。

「…。うん。
わかった。うん。いつかね。ホントいつかでいいからさ。気が変わったらでいいからさ
きっと話してよね?
あの…待ってるよ」

一見、物分かりがいいようで、だが確実にしつこく僕は念を押した。

「ごめんね、ありがとう。」

背中を向けたまま急いで帰り支度をする小川に
さっきまではしつこく食い下がっていた僕だったが、
謝り続ける彼女の姿に
軽く自己嫌悪に陥り、
僕はそれ以上
もう聞かないことにした。

「じゃあ…」

玄関まで送り僕らは別れの挨拶をした。
振り返り、ドアノブに手をかけたところで小川はいったん動きを止め、
やはり背中を向けたまま
小さな声でこうつぶやいた。


「アレ…、さっきのアレ…。
私…父親を、父親を…食べたの…」


そう言うと急いでドアをあけ
小川は走って家を出ていった。
ゆっくりと閉まるドアの隙間から遠くなってゆく少女の足音だけが、建物の中に響き渡っていた。

指の痛みも忘れるほどの
その言葉の衝撃に、
僕はしばらく呆然と
閉まったドアを眺めていた。

似たような状況、初めて小川が来た時とは全く正反対の気持ちで、
ただじっと眺めていた。

何もないドアを
眺めていた…。




つづく