第三話 あの日、壊れたもの | 小川凛 「カマキリ」

第三話 あの日、壊れたもの

六月二十日。

今日は久しぶりに朝から体調がよかった。
久しぶりの学校、行きたいような行きたくないような感覚。
かなり足が重かった。
それでもなんとかたどりつき教室へ入る。

ショックだった。

扉を開けて席につくまでの何秒かで、明らかにこの前までとは何かが違うことに気が付いてしまった。

小川凛が孤立していた。

あの事件のせいだろうか?完全に無視されていた。
たかが一度、嘔吐したぐらいで、学校一の美女は一転して
“そこにいない人”
になっていた。
こいつらは多分バカだ。
いや、絶対にバカだ。
たかだか一回のミスですべてを決めてしまう。
高飛車でもなく
元々、発言の少ないタイプだった小川だけど、
以前にも増して彼女はおとなしくなっていた。
恋どころではない…痛々しくて見ていられなかった。
ぼくが今もしマシンガンを持っていたら、ここにいる連中一人残らず撃ち殺してやりたい。
自分の無力さが情けなかった。
ただ「ごめんね…」と心の中でつぶやいた。
教室の外で雨が降っていた。
それだけが救いだった。


それからまた僕は、
学校を休み続けていた。
元々体の強いタイプではなかったが。
最近はとても調子が悪い。
勉強は好きだけど、友達が多いってワケでもないし、それにうるさい教室よりも自分の部屋の方が勉強に集中できる。
僕の両親もそんな僕のことをよく分かっているようで、何も文句は言わなかった。
ただ、ひとつだけ問題があった。
もうすぐ期末テストだってのに、詳しいテスト範囲や傾向がまるで分からない。
クラスの誰かに電話して聞こうにも、一体誰に電話すりゃいいんだろう?
僕には友達と呼べるやつなんていやしないんだ。
担任が電話してくれりゃいいんだろうけど、いっこうにかかってくる気配もなかった。

「まいったな……」

ぼくは途方に暮れていた。

共働きの両親のおかげで、誰もいない家は自分だけの城のようで居心地こそよかったが、必要なものがあると本当に困る。
詳しい範囲がわからない僕は、今の学年で習う全範囲をカバーすればいいと考え、参考書を買いに行こうと思っていた。

だけど、だ。

ただでさえ体の小さい僕が平日の午前中に街を歩き回ると目立つのだ。
補導なんてされた日には、目もあてられない。
それにやはり、外を歩くのは少し疲れる。
そんなことを考えているうちにまたウトウトしていた。
いくら寝てもまだ眠い。
ねむい…。


“ピンポーン”

インターフォンの音で目が覚めた。
時計を見るとAM11時30分……親じゃない。
宅配便かTVの受信料か、いずれにしても迷惑な話だ。
「だまってればすぐに帰るよな……」
居留守をつかってやり過ごすことにした……が。

“ピンポーン”
“ピンポーン”

「あ~もう…」

あまりのしつこさにインターフォンの受話器を取る。
「!!!」
ビックリして僕は自分の目をうたがった。
来客者用の防犯カメラに映っていたその人物は、
それは…
小川だった。
小川凛だった。
心臓が爆発しそうになる。
受話器から声が聞こえる。

「あのー、青井さんのお宅でしょうか?」
「はい」
平静を装い、僕は喋る。
「翼さんいらっしゃいますか?」
「はい……」
「私、翼さんと同じクラスの小川と申します、期末テストの範囲を書いたプリントをお届けにまいりました。開けていただいてもよろしいですか?」
「あ、はい、どうぞ、はい」
オートロックの開錠ボタンをカチカチカチッとなんども押し、
「はい、開きました、開いてます」
とつづけた。

それからすぐにパジャマから外着にきがえ、部屋を片付けた。そしたらまたすぐにチャイムが鳴った。
“ピンポーン”
最後に玄関の鏡で、はねたうしろ髪を指でとかし、口にたまったツバをのみこみドアを開けた。

ガチャッ。

「こんにちは。あっ、やっぱり青井くんだった」
「あっうん。うち共働きだから……」
「声でわかるよ。青井君は可愛い声してるもんね」
「ああ、そう、ありがとう」
顔が真っ赤だった。
口から心臓が飛び出そうだ。
しばしの沈黙……何をしゃべったらいいのかわからない。
「おじゃましてもいい?」
思ってもみなかった言葉に、心の底からとまどいながらも平静を装う。
「ああ、どうぞ」
ダイニングに案内する。
一度玄関に戻り、錠が閉まっているか確認をした。
ちゃんと閉まっていた。
戻ると居間のテーブルに小川が座っていた。

「何か飲む?」

冷蔵庫を開ける。が、何も入っていない。
「あっ」
小さく声がもれる。
「何もないって顔してるよ?」
見抜かれている。
「あ…買ってくるよ。ちょっと待ってて」
出掛けようとすると、それを小川がさえぎるように言った。
「お茶でいい?お茶ならあるよ?」
500ミリのペットボトルをカバンから取り出し、小川が笑いながらこっちを見ていた。
すいこまれそうな笑顔だった。
僕が座ると小川はまた笑いながらつづける。
「でもいっこ」
飲みかけのペットボトルを差し出し、僕に飲むようにうながす。
「ああ、どうも」
ひとくちふたくちと口にふくむ。
「んっ…」
それを口にためたままペットボトルを小川に返し
そしてそれを飲み込んだ。
ゴクッという音がして、それが小川に聞こえたようで、また恥ずかしくなった。
どうしたんだろう?
なんで今こんなことになっているのだろう?
何一つ理解出来ない。

「今日はね、テスト範囲のプリントもだけど、ひとこと青井くんにちゃんと謝りたくって…」
「…なにを?」
大体の見当はついていたけれど、僕は気付かないふりをした。
「青井君を汚しちゃって…」
「あぁ…忘れてたよ」
忘れているワケなどなかった。
アレからというものぼくの頭の中はあのことでいっぱいだった。
「怒ってるよね?ごめんなさい…」
「いや…全然。ほんと全然気にしてないから…」
本音だった。
気を遣っているとかじゃなくって本音だった。
「よかった~」
僕の言葉を聞いて、小川は本当に嬉しそうだった。
それが僕もとても嬉しかった。
「あっそれとコレ…テスト範囲とノートのコピー…それと…」
カバンをあさりながらしゃべる小川に僕は言う。
「でもなんで?先生に頼まれたの?それにしてはまだ授業中だし、それにわざわざ女子に頼むはずもない。
だとしたら何で?
ハッキリ言って僕ら仲が良いってワケでもないし、ただあやまるだけなら電話ですむ話だ。それにこんな時間じゃなくていい…」
自分でも驚くぐらいの早口で僕はまくしたててしまっていた。
「するどいなぁ…」
下を向いたまま小川はやや困ったような顔で答えた。
「あれからね?あの日から…私に話しかける人なんて誰もいなくなった…学校でも私はバイ菌扱い…最初は少しだけショックだったけど。もともと人と話すのは得意じゃなかったし…今は気ラクでいいけどね…。
というより、人に話しかけられて笑顔つくってってやるのが大変で、すこしうんざりしてたから今は、ほんと言うと少しだけせいせいしてる。
本当よ?
私あんまり人が好きじゃないの。
そーゆーのもあってサボっちゃった(笑)
それでずっと青井くんに謝らなくちゃ…って。
心にひっかかってたから、テスト前だし、範囲わかんないで困ってるだろうなぁ…って思って、テストの話にかこつけて遊びに来ちゃった…」

本音だと思った。
全然強がっているようには見えなかった。
それよりも何よりも驚いたのは、小川がこんなにおしゃべりだってのと、こんなに口が悪いってことだった。
思わず僕は吹き出してしまった。
「フハハ…小川って案外、口が悪いんだな(笑)」
「そう?以外だった?本当の私はおしとやかでも清楚でもなくって性格が曲がった嫌味な女なの(笑)」
僕らは笑っていた。その勢いで僕は続ける。
「毒も吐くし、ゲロも吐くし…」
そう言ったあと、ゾッとした。調子にのってちょっと言い過ぎたかと思い、チラッと小川の方を見た。
そしたら小川はとても恐い顔をしてこっちを睨みつけていた。
「ごめん。調子に乗りすぎた…ごめん」
“しまった”と思った。
せっかくやっとうまく話せるようになったのにまたふりだしに戻ってしまう。

「あの時……本当はどう思ったの?どうして私の顔の…その…汚いの…ぬぐってくれたの?クラスの人達はアレから私のこと、汚れたものを見るような目で接するようになった…。そんな時いつも青井君の声を、青井君の目を思い出すようになったの。青井君ならきっと…そんな目で、汚いものを見るような目で見たりしない…って。きっとそうだ。って思うようになって。それから私、何か変なの…。私もう普通じゃない…。私…私…、聞かせて…?あの時どんなこと考えてたの…?」

正直驚いた。
思いもしない答えだった。
心臓がドキドキしていた。
今までとは少し違う感じがした。
「俺は…それまで…恋とかしたことなくて…だから小川みたいに
“美人だ”
“キレイだ”
ってみんなから言われてるような奴を見ても何とも思えなかった…それはごめん。だから、男とか女とかって分けて考えるようなこともなくって…だから、小川のことも何とも思ってなかった。けどあの日、完璧な小川が壊れた瞬間…完璧じゃなくなった瞬間…すごいドキドキした。あの時…もしかしたら俺は初めて…。
その…だからすごいキレイだなあ~って思って…心の底からそう思って…
で本当は…そのおいしそうだなぁ…って思って
本当は小川の…アレを…教室に誰もいなかったら、多分俺は口に…口に入れたかった…食べたかった…」

舞い上がっていて、もう訳がわからなくなっていて頭が真っ白で、自分でも何を言っているのか分らなかった。
ただ、とんでもないことを口にしてしまっているってことだけは確かだった。
もう元には戻れない…、
そう思った。

「私…汚くない?
私…汚れてない?」
「全然…汚れてなんかないよ…」
「青井くんだけはそう言ってくれるって思ってた…信じてた…うれしい」

いつも完璧だったはずの小川が泣いていた。
今まで人形だと思っていた小川は、本当は人間だった。

人形は泣いたり笑ったりしない。

小川はまぎれもなく人間だった。

「私を見る誰もが私に完璧なものを求めてくるの。
小さい頃からずっとそうだった…出来て当たり前、勉強も運動も…それがいつもプレッシャーで誰にも弱音なんか吐けなくて…。
いつもいつもトイレで独りで泣いてたの
…声を押し殺して…
最近は、なんか気分まで悪くなっちゃうようになってトイレでよくもどしてたの…それがたまたま授業中に…。
でもいつかはあんな日が来るって分かってた。
それが怖くて怖くて…。
でも、本当は、心のどこかでは、待ってたのかもしれない…。
完璧が壊れる、瞬間を。
そして青井君みたいに完璧じゃない私を認めてくれるような人がでて来るのを…
待っていたのかもしれない」
泣きながら話す小川はキレイだった。
「完璧じゃない小川は、完璧な小川よりずっとキレイだよ?」
心の中にあった言葉をつい口にしてしまった。
「ありがとう」
そう小さくつぶやき…
小川は泣きつづけた。
ぼくはそれをじっと見つめていた。


「じゃあ」

それからどれくらい時間が流れただろうか、僕は小川を見送っていた。
一度は帰ろうとした小川が、クルッとふりかえって、

「また…来てもい?」

と照れくさそうに言った。
僕も照れくさそうに言った。
「喜んで……」

幸せすぎて頭がどうにかなりそうだった。
玄関のドアが閉まったあとも、しばらく閉まったドアを見つめて僕は立っていた。

しばらく…いや、ずっと立っていた。



つづく