歌壇賞は余裕で落ちた。予選くらい通ったかと気にはなるが、ピンかパーかの狂気に満ちた作品(私には日常だが)だし、2月号を見るまでもなく予選不通過だったと自分では理解する。青森じゃ「歌壇」は売っていないし、落ちたんなら端から買う気もしない。
昨夜、長野県北部で震度6弱。師匠の住む諏訪地方は被害は少なかったようだが、長野市にいる会員さんの安否が気遣われた。
さて、あろうことか、今日と明日は休みになってしまった。本社側の都合だったのだが、もう少し早くわかれば朗読会も文フリも行く手立てはあった。バスが満席ならいかんともしがたい。研修が決まった時点でバスはキャンセルし、その払い戻しは全部馴染みの店で呑んでしまった。
それでも新幹線で行く金があるなら飛び乗ったろうが、そもそも金がないから転職せざるを得なかった訳で、是非もないキャンセルと言えた。勤務形態を考えるともう参加の機会はないわけで、会いたい人だっていたが、その前に揉めてしまい気まずかったし、この稼業を(人様の年金額と同レベルになる)73歳まで続ける以上、二度と会う機会もないし、どうでもいいや(どうせ読んでないだろうから半ばヤケクソに本音を書いておく)と開き直る。
とはいえ、思惑が外れることを心の奥でこっそり期待していた自分に蹴りを入れる。世の中甘くねえんだよ、誰もオイラなんて眼中にねえっちゅうの。ガン無視されてんだから諦めろバカ。アル中上がりでクレペリンすらヤバい今の私でも、哀しいかなそれくらいの客観性は残っていて。
次に東京に行く予定は来年1月中旬のNHK全国短歌大会の収録日。とはいえ、第二回近藤芳美賞で上位入選しているという限定条件だ。いくら去年知人のT沢氏が佳作だったとはいえ、自分の実力からはまずあり得ない(どうせ予選すら通らない)ので、この戯言もまた無視していい。
午前中は溜まっていた家事に充て、昼はギャラリーNOVITAへ北林小波さんの個展を観に行く。けやきの会の仲間にクリスマスカードを買い、浅虫水族館へ移動する。
いるか館でジムの顔を見たら、それだけで泣きそう。水族館は一人になりたい場所でもあり、寂しいから行く場所でもある。この心境を説明するのは難しいが、別にわかってもらいたいとも思わない(とりあえずジム以外は)。
連休の水族館はおひとりさまにとってはいる場所がない。家族連れやカップルに遠慮すると、イルカショーの座席だって確保出来ないほど。それでも何となく閉館までいて、道の駅で入浴してすごすごと帰宅。
メールを開くと、かつてこのブログで交流のあった方から連絡があった。彼女が学生さん時代からの相互フォローだ。どうやら結婚された由。おめでとう。当時コメント欄で彼女につきまとっていたネットストーカーを撃退した日を思い出す(今となっては人のことなんて言えないけれど)。何か父親になったような嬉しさ。
12月から乗務なので、いつも通り自分でバリカンを入れた。鏡に映る自分が「ゲージツ家」篠原勝之さんに似ていて、嬉しいやら寂しいやら。
やけ酒が足りなくてコンビニに行くと同級生とバッタリ。「てめえの行き付けの店の裏に住んでんだよ」と捨て台詞を吐きつつ、「正月のクラス会には来やがれコノヤロー」と桑田佳祐風に誘ってみる。一応中学校では学級会長兼生徒会副会長だったので、クラスメイトには神通力を喪ってもいまだに強面なのだ。


自由律を。
シニカルなビート詩人になれない僕がいる冬の水族館  (美映)

蠟燭は吹き消さずおくはつあきの葡萄棚には海があふれて

カベルネをはぐくむ土地は痩せていて十字架を負う聖者のように

まつろわぬ罪人たちは聖杯にテロワールごと満たしておりぬ

満たすべき器を持たぬロマたちもキリストの血とパンを夢見る

慕情など砂塵に隠しこの秋のヴィンテージのみラベリングする

ガロンヌの河口に佇てばこの胸に刺さったままのソムリエナイフ

フィロキセラを拡げぬままに旅立てば月の港も今日は明るい

ボルドーのラベルを水に浸すときもう赦されていたことを知る

わが裡のジャンヌ・ダルクよ巡礼の旅路を急ぐ者にご加護を

あがないの聖者は要らぬひたすらに幹を支える脆き赭土


今日は初回の適性診断のため陸運へ。
結果はさすがにひどいものでした。免許取得の際、深視力が三回目でギリギリ合格ということもあり予期していたけれど、動体視力なんて最悪。
最たる弱点と思っていた精神的な安定は、無事クリアしたのだけれど。
担当者に「結果の悪い方の方が、事故って起こさないものですよ」とフォローされても、さすがに凹んだ。
これを持って明日本社に出勤ですぜアンタ。頭を抱える社長や常務、子会社の所長の顔が浮かぶってもんです。
とりあえず協調性は高いというパラメーターを信じることにして、安全運転に気を付けることにしますけど。
あっ、一応内示では子会社勤務となりました。この冬は日勤限定になりそうです。
本社での研修は明日まで。その後は勤務先での研修を経て12月デビューとなりそうです。
とまれ、クリスマスに浮かれて乳繰り合うカップルを夜中に見ないで済むのは、シングルベルの四十代独身には不幸中の幸いですかね。

おひとりさまの水族館も慣れてきてイルカと遊ぶクリスマスイヴ (美映)


博労の孫に生まれて中央のターフを駆くる夢を見てをり

木村、佐藤、鈴木と三つの苗字を持ちどれが本当の吾かわからぬ

ラーゲリに凍てる赤茄子食みしこと晩酌の都度亡父は語りき

蔑されて生き来し日々の思ひ出をクラス会には語ることなく

昏れゆける岸壁にゐて亡き母の生まれし街の空を見てをり

びなすとふフェリーに朝を迎へをり道産子の母すでに亡けれど

傘閉ぢてバスに乗り込むをとめごの背より雨の匂ひ漂ふ

ハンカチを洗ひし時に気がつきぬ高倉健がこの世にをらぬ

あゝつひに霙は降りぬ半年を暮らせる獄の点呼のごとく

わたくしも強く生きたし氷雨降るモータープールに乗客を待つ
今朝の東奥日報朝刊に、同紙主催の文芸コンクール(対象は小学生~高校生)各部門の天位受賞者の記事が掲載されていた。
次回(冬休み)短歌の小学生低学年の部と高学年の部で選者を委嘱されたこともあり、興味深く読んだ。
私自身、小学5年の時に旺文社主催の第25回全国学芸コンクール(現在は全国学芸サイエンスコンクールと改称されている)で佳作を受賞したのをきっかけにこの世界に入った。その時の詠草の出来は、今から考えると冷や汗もの。

台風で庭を流れる雨水で大水たまりいくつもできた

助詞の使い方もかなり怪しいこんなひどい作品だった。全校表彰されて舞い上がり、あらぬ勘違いを重ねて今に至るのだ。ちなみに同コンクール、現在は短歌部門はないと聞く。
記事を読みながら、今さらながら責任の大きさを痛感している。子どもたちの今後にも影響するだろうし、県内歌壇の後継育成の一環でもあるからだ。
長く芽が出ず、わずか数年のバブル的な受賞歴で選者を引き受けて良かったのか自問自答している。実際私の現在の作品も、32年前から全然進歩してはいない。