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辰己芸者太鼓橋渡り初め      


    辰巳芸者と言えば、江戸で人気の深川の男勝りの芸者衆たちのことで、男言葉を喋り、男の衣類である羽織を着て、一年中吾妻下駄に裸足で過ごす薄化粧の活発な女性たちの事である。三味線や唄、踊りなどの芸で身を立て、「芸は売っても色は売らない」という、気っぷの良い心意気と侠気に生きようとした女たちで、男性人口が多く、男社会であった江戸という街で、それに抗して生きようとした、もうひとつの別の側面を垣間見させてくれる存在だった。



   その心意気は、その信条にあるように専門の技芸に生きるということにあり、そのことがある意味で彼女らを男性化させた。江戸時代では専門的な知識などは未成熟あったし、どの分野においても専門家というほどのステイタスはまだ確立されていなかっただろう。現代に見られるような社会のダイナミックな動きをその技術や知識で支える専門家、専門的職業といったものはまだほとんどみられなかったが、その萌芽はあちこちに芽吹いていたはずである。専門の技芸に打ち込むという「張り」をもって、それによって身を立てる「粋」を追求することに徹し、誇りをもって生きた江戸の辰巳の方角、深川の女たちもそうした魁けのひとつと言っていい。そうした強い職業意識の裏打ちなくしてはとても「粋の権化」とまでは言われなかっただろう。



  市兵衛は、河岸の商売の傍ら、江戸の街へ出た折などに辰巳芸者の音吉のところに三味線の稽古に通っていた。当時商人の中には師匠について、小唄、長唄や常磐津などの三味線を習う町人は少なくなかった。市兵衛はまたその腕前を買われ音吉とともに料理屋の宴席の手伝いをすることもあった。

  「市兵衛はん。今日も料亭の宴席でお囃子をやるのでおめえも助けておくれ。」ぶっきらぼうな言い方で稽古に来ている市兵衛に紺の着物にシックなグレーの帯姿の音吉が声をかけた。

  「かまわねえよ。それにしても辰巳の芸者衆はいつも江戸の人気者よなあ。それが寛政の世直しの後で、お上の目にとまってお咎めを喰らうとはなあ。」市兵衛はここのところの幕府の度量の狭さに辟易とするものを感じる。天明の大火で吉原が焼けて以来活気づいていた深川芸者は幕府に風紀を乱すものとして警戒されていたのだ。

  「そうだわ。俺たちは何も好きこのんで目立とうとひているわけじゃあねえけどねえ。出る杭はほっとかねえというのが、質素、倹約しか頭にない、役人どものひがみ根性ってもんだわさ。」

  「姐さんたちも、前は粋な黒羽織を羽織っていたが、それが御法度になったんだってねえ。」

  「そうよ。おめえさん。で、俺たちだって好きで羽織をやめたわけではないんよ。羽織と素足はねえ、吉原の逆を行く深川の心意気だったんだから。でも、ちくしょうめ辰巳芸者はただじゃ起き上がらないよ。」

  音吉たち辰巳芸者衆が、幕府に意趣返しの当てつけをするというので市兵衛も手を貸してやることになった。、ちょうど懇意だった亀戸天神の宮司に、今度予定されている太鼓橋のお披露目に辰巳芸者衆が揃って渡り初めできるように一言斡旋しておいた。


  

  かつてお座敷での旦那衆の芸者遊びには、深い教養と洗練した技芸を必要とした。芸に卓越した技量を持っているほど深く遊びを楽しめたからである。小唄や長唄などを芸者の三味線に合わせて、唄を合わせたり、三味線のパートを互いに弾き分けたりする。三味線などの邦楽の楽曲は多くが唄の旋律と三味線などによる伴奏の旋律の複雑な掛け合いで構成されている。短音の伴奏は三度や五度、時には九度のような微妙な音程で唄とハーモナイズされ、緊張感を帯びた掛け合いの上に展開されていくのだ。様々な楽曲を多く共有するようになるとさらに深い芸の交流がそこでは行われた。また芸者衆は多くの人と接して多くの情報をもたらしてくれもし、様々な世間的な相談にも乗ってくれる度量の広さを持って、世故に長けていた。そうしてほのかな色気とともに、絶品の料理が趣味の良いお座敷の意匠の中で饗されたのであった。時代が進むに従って、一人でひっそりと深い世界を楽しみに来る旦那は減って、にぎやかな宴会が多くなってくるが、お座敷の本質は、本来芸達者な旦那衆の技量と日常の鍛錬に支えられ、それが専門家の芸者の技量とコラボし共振して現出する深い静謐な世界にあるものだった。



 文化年間の空の晴れ渡ったその日、火災で焼けた亀戸天神の太鼓橋が掛け代わり、落成式が行われた。亀戸天神は、ご開帳並の人だかりになって江戸の人々が集まってきていた。シンボルの真っ赤な太鼓橋の前で、祈祷や宮司の挨拶があり、ひちりきや笙の優雅な雅楽が高鳴っている。いよいよ橋の御開通である。宮司や招待されている旗本や、町名主が最初に渡り初めを行い、続いて、武士や町人の人々。と、その前に華やかな一団の女たちがいた。それが境内に大きなどよめきを起こさせた。世に言う辰巳芸者の太鼓橋渡り初めであった。紺や黒を基調にしたシックな着物をきりりと端正に着こなし、皆そろって太めの帯を大きく膨らませて今までにない結びで結んでいる。足下は吾妻下駄に素足だが、それがかえって、すっきりした立ち姿と相俟って新鮮味を感じさせる。皆島田髷に結い、トレードマークの一文字の櫛をそれぞれつけている豆奴、音吉、穂吉、佐介ら、辰巳芸者の10人ほどの一団だ。どこからともなく喚声とともに喝采が起こった。「よー鉄火芸者!」「よおっ色男、羽織芸者!」人々にまぎれて後ろにいた市兵衛も大きく手を叩いた。江戸の人々はいつまでも橋の上を占領する女たちに賞賛の拍手を送り続けた。それはまさに寛政の改革による羽織着用禁止に対する女たちの意地をかけた幕府に対するやり返しだったのだ。このことは江戸中の評判となり、そうしてその太鼓橋をかたどった帯結び「太鼓結び」は多くの女性たちに支持され、現代ではもっとも一般的な帯の結びのひとつとなってその名残りを今に伝えている。


   辰巳よいとこ、素足が歩く  羽織やお江戸の誇りもの(江戸小唄)



 天保の改革以後、深川富岡不動、門前仲町周辺の辰巳芸者たちは柳橋へと移された。年月を経て明治期に入って浅草橋の問屋の旦那衆に支えられて再び興隆したが、その中には辰巳芸者の伝統を引き継ぐ男勝りの芸者衆が少なくなかったと言われている。その後政治家や起業家たちによって派手に賑わった東京の花柳界で最大となった新橋や赤坂とは、隅田川のほとりにある柳橋は少し違った情緒を醸していくのである。