釜市釜屋中島市兵衛とは
なぜ、釜市釜屋中島市兵衛の事を小説で表現するのか?
謎の多い人物であり、地方の豪商だったという以外に、いろいろな方面で痕跡を残しているからである。戦後すぐのカスリン台風による水害後の、西宝珠花河岸の大半が水没した江戸川改修工事では、市兵衛の屋敷跡から小判が大量に入った壺が発見されたり、何度か古銭の壺が見つかっている。にもかかわらず大福帳等の取引記録が水没してしまったのか意図的に処分されたのかほとんどない。河岸問屋で河岸の中心人物であって、相当な豪商であったことは明らかで、古文書館に記録の残る源兵衛との共同の取引では大きな額で取引しているし、幕末に天狗党に強奪された額も七百両と突出して大きい。また街区となり発展した河岸のかなり多くの土地を所有していた人物でもある。(黒枠が市兵衛所有地)
一番早い時期から西宝珠花河岸に定着した人物で、江戸時代の重要な人物とかなり接触している可能性が高い。江戸川開削を指揮した代官小島庄右衛門、後に幕府の菩提寺増上寺の最高位となる祐天や、出世城と言われた関宿城の城主たちや羽倉外記等の周辺の代官である。あるいは釜六、釜七等の同郷の幕府の御用鋳物師たちである。
釜屋中島市兵衛こと釜市は、江戸時代を通して6代から7代続いた。だから小説で表現される釜市は、その物語の時代の釜市であって、必ずしも同一人物ではない。各代の釜市でそれぞれ違った個性を持っていたのだろうと思うし、それぞれがその時代の課題を負って、それぞれ違う事業に取り組んでいたようである。
ある時代には江戸川開削事業に関係していて河岸の原型を作る事業に携わっていたし、ある時期は仲間の釜屋商人に教えを受けて、醤油を中心にした酢や酒の醸造に取り組んでいた。そうした醸造を得意とした商人たちとともに江戸の醤油番付に名を連ねている。またある時期には、河岸には関宿の船番所の待ち船が多く滞船していたので、居酒屋、料理屋、料亭や遊郭を営んで賑わっていた。公儀公認のものであったらしく、施設のもぐりの業者を取り締まったりしている。江戸時代のそれぞれの時代を通して、各藩米の運送から始まって、近郊の野菜類、東北からの古米の買い付け、万商いと称してあらゆる品物、産物を運び、その交易、流通に携わってきている。
ここに釜市の署名の入った万延年間の文書がある。釜市は組頭とあり、関東取締出役の下部組織を担っていたようである。確かにこの時代になると無宿人の増大と社会風紀の乱れは深刻な問題になってくる。近郊の幸手宿でも無宿人が多数とらえられて宿に留め置かれているが、かさむ費用を何とかしてもらいたいという陳情が代官所に出されたりしている。少数精鋭の関東取締出役の役人の実働部隊として、改革組合村として指定された村々の組頭が動いていた。悪党や賭博、風俗の取締り、諸経費の負担、囚人の護送などだ。
この文書は埼玉古文書館に残されている市兵衛の共同事業者の釜源釜屋中川源兵衛の文書の一部である。文書には釜屋市兵衛との共同での取引も少なからず残されている。江戸の小網町や小舟町に江戸への物流の支店があったことなどもわかる。
釜屋中島市兵衛が、河岸の豪商、金具屋前田仁平、釜屋中川源兵衛たちと書面で奉っているのは、幕府への二百六十両の献金である。西の丸の火災での消失に対して、今般は外国船が多くやってきて海岸等の備えで大変である折、積み立ててきた金子を献金したいとの趣旨だ。相手は当時幸手の代官であった川上金吾助だ。
二つ目の文書は釜屋源兵衛宛ての代官羽倉外記からの受取状である。当然他の二人にも個別に受取状がいっているはずである。特に釜屋市兵衛については二百両に対してということになる。結局それぞれに褒美の白金何枚かが与えられている。源兵衛が三枚である。 そうすると市兵衛は何枚であろうか。釜市釜屋中島市兵衛の資料は見つかっていない。