め組の喧嘩(釜屋芝界隈出店風聞)
「お若えの、ちょいと、お待ちなせいやし。」
明暦年間に、町奴の幡随院長兵衛が、旗本奴の水野十郎左衞門を、その野太い声で呼び止めてから、喧嘩は江戸の華として、街の刺激剤として欠かせないものとなった。歌舞伎も街の悪所のひとつとされて、またこうした歌舞いた不良たちを好んで題材に取り上げた。直情直行の幡随院長兵衛は旗本子弟の不良集団旗本奴たちの策略にはまって殺されてしまうが、長兵衛は狭客の元祖となり、その顛末は歌舞伎の人気の演題となった。
最後の侠客と言われた新門の辰五郎は火消しであった。飾り職人の息子で、浅草を組の町火消になり、火消の勢力争いで他の組と喧嘩し牢獄にいたこともあった。新門は浅草寺の門で、浅草寺界隈の顔役のひとりであった。娘は最後の将軍慶喜の妾であり、何から何まで任侠らしい世界を生きた。享保年間になって町火消が設けられたのは、その頃には町人地が飛躍的に広がったことがある。町火消は貨幣経済の浸透につれ町人や商人の力が強くなったことが背景にある。当時の消火は荒っぽい破壊消火であり、屋根の上で纏を振ったりしたため、高所で作業する鳶職の者も含まれていた。鳶職や火消は侠客と紙一重の存在であり、侠気に生き、喧嘩っぱやいという意味では変わるところはなかった。
明暦の大火後、幕府はそれまでの大名火消しに変えて、旗本からなる定火消しを置いて消防活動を強化した。そうして享保年間に財政上の理由から町人の消防組織の町火消し、いろは48組を置いた。火事もまた江戸の華であった。そもそも大名火消しの時代から、火事というと派手や華美に走る傾向があり、大名の中には自ら騎馬にまたがり思わせぶりにゆっくりと現場に駆けつけ、消火活動の最中に三度も派手な衣装替えを行ったりした者もいたという。それ以前の奉書火消しは、火事が起こって奉書が届いてからやっと出動した。加賀大名屋敷の加賀火消しは増上寺の火事の際、本郷から芝までそろいの法被で水桶リレーをやって呆れられている。江戸時代を通じて有名な明暦の振り袖火事、目黒行人坂の火事、芝車町の三大大火以外に、二千回近い火事があった、何しろ火事の多い江戸である。それまで見当外れな消火活動しか行われなかったわけであるから、素早くきびきびと動く機敏な定火消しや町火消しの登場は江戸庶民の待望したものであり、喝采をもって受け入れられたのだ。そうして彼らは、長半纏に胸当て股引姿に鳶口を持った颯爽とした出で立ちとともに羨望の的となった。そうして町火消しはまた江戸の喧嘩の主役のひとつでもあった。短気でせっかち、喧嘩っ早いその気質は、消火活動にはうってつけで、江戸の庶民からは歓迎されこそすれ、嫌われるものではなかった。
市兵衛は、芝の芝神明宮近くで相撲興行に合わせて行われていた宮芝居見物に来ていた。同じ屋号の釜屋の店が多く芝や浜松町に出店しており、また増上寺に懇意の僧侶がいるので、市兵衛へはよくこの界隈を訪ねることがあった。また普段は巨大な増上寺の境内が広がり、多くの塔頭があるこの辺りは静かな界隈だが、門前で祭りや興行があると大門の辺りを中心に人でごったがえすほど賑やかになる。ところがその日、芝居は芝居そっちのけで、火消し衆と相撲取りの言い合いが始まってしまい途中で中断してしまった。
「こちとらお相撲とりのでっけえ背中を見に来てるわけじゃねえんだ。そんながたいで前のほうに居座られたひにゃ、芝居見物だか相撲見物だかわけがわからねえ」
め組の鳶、辰五郎だ。先ほど火消しの特権にかこつけて木戸銭を払わず、相撲興行を見物しようとしたのを九竜山に咎められて根に持っているのだ。
「やめとけ、やめとけ。芝居見物の衆の迷惑になる。」
市兵衛も声を出した。
「だまっとけ、め組のちんぴらめ。」
言葉すくなに応戦していた九竜山は、口の減らない辰五郎に最後には堪えきれなくなって、九竜山は辰五郎につかみかかった。その瞬間辰五郎の身体は投げられて、芝居舞台の上でもんどり打った。すべてはここから始まった。相撲部屋の連中、親方衆が九竜山の肩を持った。め組の火消しの鳶衆は、半鐘を打ち鳴らして火事装束の仲間を集めた。両者は芝神明宮の境内でにらみあった。にらみ合い、乱闘は数日に渡って続いた。乱闘に与力や同心が割って入り、仲裁に町奉行、寺社奉行、勘定奉行の三奉行が顔を揃えて、喧嘩は江戸中の評判になった。世に言う文化二年の「め組の喧嘩」である。
江戸時代には江戸の華と呼ばれた大きな喧嘩がたびたび起こり、時には大きなぶつかり合いが繰り広げられた。しかし不思議とけが人は多数出ても、死者はほとんどいなかった。江戸っ子の間で行われた喧嘩には、激しい啖呵を応酬しあいながらも、その中に一定の節度があったことが窺える。「め組の喧嘩」では、辰五郎はじめ火消し数人と、九竜山が江戸払いとなった。なんとも粋なはからいなのが、打ち鳴らされた半鐘の鐘自体が遠島となったことだ。江戸の悶着の決着や喧嘩の仲裁は、どこか粋でユーモラス、暗さがない。半鐘は明治時代に島からもどされて現在も芝神明にある。
江戸っ子は五月の鯉のふきながし。 口先ばかりではらわたなし (江戸川柳)
火消しは、多くは鳶職だった。芝にも町火消し、いろは48組の「め組」があり、威勢のいいところを見せて門前町を盛り立てて活躍していた。その伝統だろうか、後代には芝神明の近くに、地元の鳶たちの技術で江戸東京の象徴である東京タワーが建設されている。