前にも

人間関係の再構築について書いたと思う。

最近の課題はそこ。

人間関係と対人関係の言葉の違いが

今ひとつよくわからない。

 

辞書で調べてみる

対人関係:他人との関係

人間関係:社会、組織、集団などにおける人と人との関係、

特に、個人と個人との心理面・感情面での関係性をいう。

*大辞林 三省堂 1989年3月 第10刷 発行

 

対人関係の説明はそっけない

一方

人間関係については丁寧な表記。

 

わたしは

「人間関係」はどちらかというと複数の他社と自分との関係性のことで

「対人関係」は相対する他者との一対一の心理的な関係性のことかなと

漠然と考えていたようだ。

 

辞書に従えば

「人間関係」の方がわたしのテーマにしっくりする。

特に

個人と個人との心理面・感情面での関係性のところ。

 

わたしは

他者との付き合いの中で

関係性が深まらないことに気がついた。

同性も異性も。

異性との関係性は同性とのそれよりも遠く

同性間の関係性はある程度いくと

利用されてしまったり

従属的な関係性を求められるようになり

それはわたしが望むものではないので

わたしから距離をとるようになる。

 

この辺りを

わたしは他者の問題と捉えていたのだが

「変えられないものと変えられるもの」との視点から考えれば

他者は変えられず

変えられるのは自分なので

自分のことを考察の対象としたところ

わたし自身の人間関係のパターンとして

同じようなことを繰り返してきたことに気がついた。

それが利他的なわたしの行動パターン。

相手の求めること望むことを察知して

それとなくしてあげるうちに

してあげることが当たり前になり

相手はそれ以上を望んでくるようになる。

そうなるとわたしは

むしりとられるような感覚に襲われて苦しくなって

心理的にも物理的に

そんなに献上ばかりもしてられないので

相手の感情を逆撫でしないように気をつけつつ

距離を置くようになる。

この辺がとても疲れて面倒臭い。

そこでも相手の感情に気を使うことに捉われる。

 

そうなのだ

基本的に相手との関係において

わたしは相手の感情に敏感で

相手の気分を害さないことに気を使う。

しかし

相手はそうでもないことが多くて

人によっては

わたしのそのような気遣いに乗じて

マウントをとってくる者も少なくない。

わたしはそこまで気弱ではないので

そこはすぐに撥ねつけるので

そのあたりは問題にならない。

 

では何が問題かというと

適当な距離で親しみを感じながら付き合える

他者との関係性の構築が難しいということ。

 

ここまでのことは同性間のことであって

異性との間はもっと淡白だ。

そもそも

感情の行き違いとか拗れとかが生じるまでの

距離にならない。

それはわたしが避けているから、ということに

気がついたのはごく最近のこと。

 

それが愛着障害。

 

わたしが慕う対象、近づきたいと思う異性と

どうしたって距離を縮められない。

 

「自分なんて相手にされるわけがない」

「自分が愛されるわけがない」

無意識に反射的にそのような思考が出てくることがやっとわかった。

わたしの深層心理、下意識に根を下ろした自己否定の感覚。

 

これがわたしの生きづらさの正体で

わたしのこれまでの人生を支配してきた

行動パターンの回路の根源にある。

もちろんこれ一つではないが

人間関係における根源であったことは間違いない。

 

ではこれがどこからきたかと、考えれば

人間関係の基礎が構築される原家族の中

すなわち

幼少期から児童期のことで

その頃の記憶を紐解けば

母親からの言葉責めと突発的な暴力

不在にも等しい父親の無関心

に行き当たる。

 

母からはつねに他人と比較され

兄や従兄弟、同級生などと比べられ

わたしの劣るところ、醜いところをあげつらい

じわじわネチネチせめたてる。

良いところを褒められたとかは思い出せない。

その上

子供の僕が夢中になることを冷ややかな目で

嘲笑ったり馬鹿にしたりした上で

遠ざけてゆく。

結果的にわたしの対象は

母が許容したもの限定されてゆく。

無気力な子供はこうして出来あがるのだろう。

 

心の荷重がしんどくなってきたいので

今日はここまで。