Yahooにあった記事がとてもわかりやすかったので
引用してみました。
こんなにもいろんな要素が入り組んで今に至るのですね。。。。
パレスチナ問題の概要
イスラエル
建国以前から多少のあつれきはあったものの、ユダヤ人
とパレスチナ人
は比較的良好な関係を築いていた。その理由としては、両者の人口バランスがとれていたこと等があげられる。だが、故郷を追われ世界に散らばっていたユダヤ人(これをディアスポラ
と呼ぶ)のなかで、再び故郷であるパレスチナに国家を建設して安住の地としようという運動(シオニズム
)が盛んになるにつれて、パレスチナ
に移住するユダヤ人が激増し人口バランスが崩れ始めた。
このような状況に加えて、パレスチナ問題をここまで複雑化させたのは、イギリスによる身勝手な外交戦略と国連
による不平等な取り扱いによるところが大きい。イギリスは第一次大戦のさなか、敵国であったオスマン・トルコ
を内部から切り崩すため、トルコと敵対していたアラブ人に対して反乱を起こす見返りとして独立を約束した(フサイン・マクマホン協定
)。一方で、莫大な戦費調達のため、ユダヤ人(銀行家のウォルター・ロスチャイルド
)に対して先に述べたシオニズムを支持しユダヤ人国家建設を支援するという約束をした(バルフォア宣言
)。さらに、フランス・ロシアとの間で大戦後の中東分割について話し合って協定を結んでいた(サイクス・ピコ協定
)。3つの協定は一見矛盾しているようだが、内容を検討してみると相互に矛盾はほぼないと言える。だが、このようなイギリスの自己の利益のみを考えた外交政策が後の混乱を生んだことは否定できないであろう(三枚舌外交
)。
その後もナチス
による迫害(ホロコースト
)を逃れるためにパレスチナに移住するユダヤ人は急増し、土地をめぐる争いが頻発した。これに対し、パレスチナを委任統治
していたイギリスは自身では対処できないと国連にパレスチナ問題
を委ねてしまった。そこで国連はパレスチナをパレスチナ人とユダヤ人の国家に分割し、エルサレムを国際管理下におくという「パレスチナ分割決議」を採択した。この決議は人口で3分の1、土地所有面積で7%のユダヤ人に57%の地域を割り当てるという非常に不平等なものであった。これが採択されたのは、ユダヤ票の獲得を目論むアメリカのハリー・トルーマン
大統領の圧力があったとされる。(アメリカの政界においてはユダヤ・ロビーが強大な権力を握り、大統領ですら彼らの意思を容易には無視できない。特に、トルーマンの支持政党である民主党 (アメリカ)
はユダヤ人の支持者が多いことで知られている(ロビー活動
))。アラブ側はこれに反発したものの、決議に基づいてイスラエルが建国されたことで、独立阻止のためにパレスチナに侵攻した(第一次中東戦争
)。この戦争にイスラエルが勝利したことで、国家建設は確定的なものとなり、その結果として多くのパレスチナ人が難民となり故郷を追われることになった。
イスラエル独立後もアラブ側との対立はますます激化し、何度も戦火を交えることになる(第二次中東戦争
| 第三次中東戦争
| 第四次中東戦争
)が、その都度アラブ側が敗北してイスラエルの占領地が拡大し、パレスチナ難民が増えるという構図になった。パレスチナ人もPLO(パレスチナ解放機構
)を結成してイスラエルに対する闘争を強め、対立はより根深いものとなっていった。
このような状況下でも和平を模索する動きもあった。エジプトのサダト
大統領は反イスラエル路線を転換し、キャンプ・デービッド合意
を経てイスラエルと平和条約(エジプト・イスラエル平和条約
)を締結した。後に彼は暗殺されるが、エジプトはこれ以後イスラエルとの共存路線に変化した。PLOも当初は徹底的な反イスラエル路線を掲げていたものの、後にアラファト
らを中心に路線転換しイスラエルとの共存をめざすようになる。
そして、1993年にはオスロ合意
が結ばれPLOとイスラエルは相互承認し、PLOによる暫定自治(パレスチナ自治政府
)が認められるにいたる。しかし、和平推進派であったイスラエルのラビン
首相が暗殺され、対パレスチナ強硬派が政権を握ったことで和平に向けてのプロセスは滞ってしまう。現在、自治は行われているものの、パレスチナ側も穏健派ファタハ
と急進派ハマス
間の意見対立を止揚できておらず、ガザ地区
の問題など混乱は続いている。
ヘ(゚∀゚*)ノ