先日、木枯らしが吹いて窓を揺らしていましたが、今日は穏やかな

秋日和です。窓を開けて居ても、大丈夫なぐらいです。

 

今回分の飲む抗癌剤を飲みきったので、何となく回復中です。

胃腸を通ったものの代謝にかかる時間は、24~48時間ぐらいかと

理解しているのですが、まだ代謝の道半ばぐらいでしょうか。

 

御茶を飲みつつ、

「薬よ、ありがとう。でも、役目を終えたら身体からさようなら~。」

と念じて居ます。

 

 

漸く、纏まった事が考えられる感じになってきました。

人は、どうしたって肉体の影響を受けざるを得ません。

正岡子規って凄い人だったのねえと改めて思います。

 

 

「統計」と「個人」の問題。

「統計」は大事ですし、決定を下す時の大切な要件の一つです。

抗癌剤治療においても、術前化学療法、補助化学療法、治癒・寛解を

目指した第1次の化学療法における「統計」資料の重要性は、言う

までもないと思います。

 

しかし、転移・再発を見た「個人」に対して、「統計」は資料の一つにしか

ならなくなっていくのは、ある意味、当然ではないかと感じています。

「統計」上の「多数派」には入れなかったという事がはっきりしたわけです

から、「個人」は、自分にとってのベストは・・を、矢張り追求します。

 

 

私は、転移を見て以来、標準治療+α(私は主に漢方と散歩ですが)で

命を繋いで来ました。

「統計」上だけなら、既に存在しないかもしれません。

 

 

「統計」は、ある程度元気な患者さん達の集団の「治験の結果」から導き

出されてきたものかと思います。

「統計」に協力されてきた患者さん達に敬意を感じつつ、常に「統計」を

盾にメデイアの中で論立てをなさる医師に、「ちょ~っと、違うかなあ・・・。

現実は・・・・。副作用についてもね・・・・・。」

と思うことがありました。

 

 

 

 

今日、偶々目にした素敵な「ツイッター」 在宅医療をされてるお医者さん

(お名前に見覚えがあるので、多分有名な先生でしょう。)

 

紅谷浩之医師のツイッター  より

○「僕は、評論家でも研究者でも哲学者でもありません。

  実践家です。在宅医療の現場にいます。

  今日も、生と死の曖昧な境目に立つ人、それを怖がる人、境目は気に

  しない人たちと一緒にいます。

  医者なので、頼られたり、罵倒されたり、あきらめられたり、励ましたり、

  励まされたりしながら、そんな現場に佇んでいます。」

 

※お医者さんて、「終末期医療の周辺」に至っても、何もかも、患者をも、

 「分類」せずには気が済まない人が多いのかしらん?と思っていましたが、

 そういうお方ばかりでもないのだなと、このツイートを読んで思いました。

 

 あらゆる人や出来事を、あらゆるままに受け止める・受け止めようとする

 医師がここに居られると思ったのです。

 紅谷先生の患者さんは幸運だなあと思った次第です。

 多分、「自分」でいられる。良き患者を無理して演じる必要も無さそうです。

 

  

  白萩の 咲き残りたる 秋の庭 

          彼の日の宴  懐かしむ午後