「言葉」というものは、「場」によって、ある程度決定される。

と思うのだが、現在の情報社会は「場」で発言された「言葉」

が、「時間」の作用をあまり受けずに拡散される。

 

「言葉」は、多重性を持っているものなので、いくらでも広がる

事が可能だし、逆に、内側に向かい、分かるものだけに分か

ればいいのだ。ということにもなる。

 

業界用語となれば尚更だ。

私は、がん患者になった時、私を通り過ぎて病院で交わされる

「ケモ」なる言葉が、初め、さっぱり分からなかった。

聞いてるうちに、「ああ、ケミカルか、化学、化学療法の隠語か。」

ということが分かった。(化学療法に相当する英語を短縮)

 

患者として、当事者でいるために、病院で飛び交うカタカナ用語、

和製英語の収集と、その意味の正確な理解を目指す事から、が

ん化学療法を受ける患者としての生活を始めた。

 

 

最近気になったのは、アートという言葉。

 

仮に、「生」「老」「病」「死」を言葉で織りなすアートを楽しみましょう。

という課題を与えられたとして、悟りの境地に達していない私は、

まず楽しめないと思える。

但し、十分に小母さんな患者なので、楽しむ振りは可能だろう。

 

 

さて、どうもアートという言葉は、医学界ではよく使われる「言葉」のよ

うだ。

 

「Medicine is a science uncertainty and an art of probability.(医学は

 不確実であり、確率のアートである。)」(カナダの医学者ウイリアム・

 オスラーの言葉。

 

故日野原重明先生も医学生に向けて「医学のサイエンスとアート」

という講演をなさっておられる。(昭和63年順天堂大学での特別講演)

 

2006年の医学書院の医学界新聞には

「外科手術のアートとサイエンス」という対談が載っている。

 

サパイラという医師の「身体診察のアートとサイエンス」という著書は、

医学生必見の書であるらしい。

 

医療者の持つ情報と患者の持つ情報を相互交換?する医療コミニュ

ケーションを「アート」と説明している図も目にした。

 

 

医学・医療も多種多様な分野に分かれている訳だから、それぞれの分

野で「サイエンスとアート」が存在するのかもしれない。

 

それでも、言葉で織りなす「生」「老」「病」「死」のアートを楽しむ   には、

違和感を感じてしまうのだ。

 

 

医学におけるアートの和訳は難しいらしい。

名人芸・職人芸・芸術の域に達する、といった言葉がある。しかし、これら

ではだめなようだ。

 

はっきりとした技術が介在する診療科の「アート」なら、何となく想像は出

来る。

 

はっきりとした技術が介在しないものでは?

 

人間というものは厄介なもので、よそ事として味わう分にはいいが、自分

事として、「これは、彼または彼女のアートだな」と感じてしまった時点で、

それは演劇になってしまうかもしれない。

演じていると感じさせないぐらいに演じられれば、それこそ「アート」だろう。

 

 

サイエンスとアートは、AI(情報工学の結晶だから、これもサイエンスか)と

サイエンスとアートになっていくのかもしれない。