病院から帰ってきました。

 

血液検査の関所を潜り抜け、

「LもHもないですよ。」

と、主治医に通行手形を貰い、点滴薬コースへ。

 

前回の質問に、がん専門薬剤師さんは、レジメまで用意してくれて解説。

化学療法室の看護師さんは、私の、

「袖振り肉」ジョークに、

「どれどれ。」と付き合ってくれ、

患者対応が嬉しい病院です。

 

病院で投下する分は終わり、現在46時間持続点滴中です。

鼻水、発汗、吐き気、ちょっとしたお腹の痛み

と、副作用週間が始まりました。だんだん強くなっていきます。

眠いのと疲労感と、やがて来る悪心と。

 

 

化学療法室でうっすら眠り、鼾も掻きながら、

今日は、「絶望とは何ぞや」について考えてみました。

 

絶望しているわけではありません。

個人的な考えです。

 

医師の中には、治癒を期待できない患者さんに、

「絶望しない・・・あれこれ・・・」

を語る方々がいますが、

癌患者は、無数の枝分かれの道を、それぞれが歩いているようなもの

だと考えられますので、「絶望しない」は、どう、捉える事が出来るんだ

ろうか?と考えます。

 

捉え方の違いを構成するのは、患者の

年齢、性別、家族構成、志向、思考、性格、経験、人によっては信心、信仰、宗教。

勿論、癌の種類、進行速度、治療法選択の幅なども、大きな要因かと思います。

 

「絶望しないための・・・あれやこれや・・・・・」

これも、人それぞれだろうなあと思います。

 

完全に私の個人的な意見ですが、

「まあ、治癒は無い。」

と分かった時点で、私という患者は、

「絶望という明るい暗闇(矛盾した表現です)」を、生きて歩き始めたようなものです。

「絶望」に絡めとられても仕方がないので、

「明るい暗闇」をどう歩くかになるわけです。

 

歩き方は導かれるものでもなければ、規定されるものでもない。

(個人的意見です。)

 

プログを書き始めて良かったなと思う最大の事は、

治癒に向かっている人、

治療に挑戦している人、

時間を得る努力をしている人、

人助けに邁進している人、

患者さん達に、緊張せずに美味しく話せる場を提供している人

患者である家族を、患者が心の負担に感じない様に支え続けている人

自分の時間を噛みしめて、生活を楽しんでいる人に、

インターネット上で、または、現実でお会いできた事です。

 

 

私という患者は、かなりニヒルな傾向がありますが、

 

苦しい状況がやってきても、

「生きる」「生きている」「生活している」「楽しんでいる」人が、掲げている灯りと、

それをともし続けている人の存在が、道しるべとして、光を放ってくれているのです。

 

鼾を掻きかき、うすぼんやりと眠りながら、私は、私の「絶望という明るい暗闇」

について、しばし考えてみました。

本格的に「絶望」を論じ始めると、健康(笑)に悪いので、深く沈潜して、

身体を休めることとします。

(若い頃、「ニーチェ」が流行ったんですよね。サルトルの方が流行してましたが。)

「虚無」と「絶望」は、果たして近しいものなのだろうか・・・なんて。