郭帆グオ・ファン導演『流浪地球2 流転の地球 太陽系脱出計画』 | 錆びた館 分館3

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のつづき

気がついたら、ちょっと前に国際映画祭か何かで上映されたらしい中国SF映画がもう上映されてる。『三体』の原作者の短編が元の『妖星ゴラス』みたいな映画。近年大作に連続主演の呉京ウー・ジンがまた大活躍の大作なんだろな、と、直前にたまたまテレビでちょっと流れた予告で劉徳華アンディ・ラウがいかにも訳ありな科学者役というのが気になってそりゃあまあ見逃すわけにもいかんはずと上映館探すと、都内では日比谷、日本橋、錦糸町。それはいいところではあるけど午後一の上映の後はレイトショーとは。日比谷で12時に終わっても簡単に帰れないですよ。や、帰れなくもないけどギリギリすぎ。というわけで錦糸町へ。ここなら11時半に終わるからちょっと余裕がある。

なんて気軽に行ったのですが。

冒頭から天から吊り下がる巨大なワイヤー群とそれを伝って噴射で上昇するエレベーター機、その先にある巨大な宇宙ステーション。数万のドローン。更に超巨大な地上建築物、地球エンジン。このひとつだけでもたとえば『コンタクト』のあれよりでかいのに、それが1万機以上も地上にあるという。そりゃあ地球を動かそうとするんだからそれくらいなるわなあ。

『妖星ゴラス』は地球に来る天体があるからよけようって話だったけど、今回のは太陽がデカくなるからもっと遠くにいかなきゃ、と違いはあるもののそこからが地球規模で行うというのはどういうことかを色んな面で見せてきて、結果としての映像しか提示しないけどそこへたどりつくまでどれだけ理屈を考えてきたかと。そこからさらにいろんな局面、巨大な危機なども描かれてくのですが、紛れもなく映画として観客を楽しませるために盛り上げられたドラマでありながら頭の中では「SF小説を読んでるみたい」

映画の側からSFを扱うと、話とか人間ドラマとかを盛り上げるための要素としてSFをどう利用するかという方向になるのはまあ必然で、なのでそのSF部分だけ見るとどうも甘いところがでてきてしまうもの。最近でこそあまりSF小説読むことも少なくなりはしたけど青少年の頃はそれなりな数を読み、同時に映像も見てたわけで、最初からどちらもあったから映像のほうがSFの理屈が甘いのはまあしょうがないんだろな、とすっかり諦めていたんだ、というのが今になってわかったんですよ。『2001年』でさえそう思ってたんだ。それがこんなにも両立するものだなんて。というよりSFを甘くすることなく映像として楽しめるもの作れるなんて。

楽しめる、ということでは次から次に起きる危機、それを見せる圧倒的な映像、だけでなく人間ドラマのところも十分に考えられてて。呉京ら宇宙飛行士たち、劉徳華ら量子理論科学者、世界中の政府が集まる政治の中枢の老中国人指導者とその下の女性政治家。それぞれに色々あって、そこもちゃんとしてるのだけど、このバランスに既視感が。『日本沈没』の藤岡弘ら現地で動く人たち、二谷英明等の学者チーム、丹波哲朗の総理大臣。こうしてみるとそのどこにも出入りしてる田所博士ってすごい立ち位置だったんだなあ。何しろ今作では共演と言いながら呉京と劉徳華が同じ場所にいるのってほんの少しだけですからね。

そのかわりというか、『日本沈没』はその沈没を予想するところまでは科学がリードしてても、始まるといかに日本から脱出するかは科学と関係ない人間だけのドラマであるのに対して、今作では科学の力がいかに対抗していけるかを画面で見せてくるわけで。これがSFの力、こういうのが見たかったんだった、ずっと。この先これからこういう映画がいくつか作られていくのか、すごく楽しみな。あ、ところでこの映画の中で日本ってほとんど出てこなかったな。中国アメリカロシアだけでなく各国の宇宙飛行士たちてところにたしかタイまでいたのに。三十年前までだったら何かしらの役どころで出たはずの日本人が出てこないのが今の世界における日本の位置を表してる感じですね。

てなことを考えて後から調べたら原題には『2』とあり、てっきりネットフリックスにあるドラマが先にあった続編かなあと思ったらそれも映画で、しかも時系列では今作のほうが前日談というSWや『インファナル・アフェア』方式。今作で意味ありげにしてたあれは前作でもっとなにかするのかあ、それは見てみなくちゃ。もちろん三作目も準備中とのこと。

とさらにこのブログ書こうとして調べてたら映画公開記念で原作小説が無料試し読みとなってるではないですか。

 

 

何しろ短編だ。前作はこの小説のあたりの時間、今作はその前ということでした。

これを映画にするために映画用としてあれだけのドラマを構築したのかあ。

ほぼ何も知らずにこっちから見に行って、それはそれで良かったような気が。

力量も面白さもわかってきたので、同じ原作者の『三体』もちゃんと手にしなくては。

 

ところで三時間の映画みたあとではすぐにトイレに行きたかったのに、出口の外で係の人が「トイレは下の階へ行ってください」そりゃあもう遅いから施設しまいかけだものなあ。と用を足してると終電まで少しはあったはずの余裕があまりなく。行きがけに気になった公園の桜まつりのことを確認することできなかったのでした。