お弁当作り終わる頃に、さましながらキッチンでブログを書くことがある。時間にして5分かかるかかからないかのこと。

リビングでは朝ごはん食べ終わりソファで主人とニュースを観る息子、まわりでまるまってなんだかキャッキャと話している次女、髪を結う長女。みんなの音が聴こえて心地よく、好きな時間だ。


さめたかな、とお弁当包みリビングへくわわる。


全員を送り出して、
ホッと腰をおろしてから書く朝もある。


私のブログはただの日記で、内容はない。書くことはないといえばない。本当に毎日同じことを繰り返し、の日々を送っている。だから朝、自分の一日のエンジンをかける要領で(ウォーキングでテンポいい音楽かけて歩き出すのと同じ感じで)ただ書く。


そんな日々なので『特筆すべきよかったこと』『心から反省しなければならない大失敗』がいつもいつもあるわけでもなく、何でもないことを書いている。


夜は、キッチンでお鍋を煮込みながら一日を振り返る。『よかったこと』『よくなかったこと』ちょっとでいいから書き留める。




2015年5月7日から、毎日、一日を振り返り日記を書くこと『振り返ること』を続けている。

これはすっかり習慣になった。




いつの間にか、平凡でも、平凡なりに、自分の日常の些細なことも意識をして生活するようになってきた気がしている。



2015年、このブログは、ブログをすすめてくれた友人、同じ会社で同じ時期に上海に帯同できていた友人、主人の3人が読んでいた。


なんにも考えず、ただただ書くことを楽しんでいた。今でも、今までも、ブログを誰かに読んで欲しいと思ったり、読んでくださいとお願いもしない。でも私自身が他の方のブログが自分にありがたい情報をくださるように(なかなか情報収集が難しかった上海生活では、どこで何が買えるかなどの情報は当時本当に貴重だったのだ)、私も、日記として行った場所を書く際には、店情報も付け加えるようにしている。



ただSNSを楽しく、自分のために使えていたはずだった。コメント欄や、メッセージでのやりとりであたたかい交流ができて、本当にありがたかった。

昨年、あることがきっかけでコメント欄をとじることにした。色々考えさせていただく機会をもらった。


発信は承認欲求を満たすものとか、自己顕示欲が強いとか、言われがちな行為なのだと思う。

そもそも承認欲求や自己顕示欲って悪いものなのかどうかとか、誰もが持っているものなのかとか、、知識が乏しいです、わたし..


まわりはブログを書いている友人はごく少数、FacebookやInstagramが盛んだ。離れて暮らす友人の近況を知ることができたり、『そんな美味しそうなお店があるの?』『そのお弁当アイディア真似したい!』と、なんともありがたいツール。

好きな芸能人をはじめ、お会いしたことがなくてもフォローさせていただいているものは、有益な情報をいただいたり、エンターテイメントを無料で提供していただいていると思っている。


読む人に対して、発信する人の方が圧倒的に少ない。発信することでリスクや傷つくことがあるからだと思う。私はその少ない発言者の方の発言するエンタメに心助けたりもする。


人に有益な情報を伝えるためには、自分がまず学ばないといけない。書くために、自分の知識をまず入れる。自分自身の想いやアイデンティティを伝えるためには、自分てなんなんだろうって言語化する練習が必要だと思う。



言語化する練習

たとえばこどもの癇癪。


こどもがなぜ癇癪を起こしてしまうのか、私は専門家ではないからわからないのだけれど、こどもを育てながら思うのは『まだ自分の感情をうまく言葉に出来ない』以前に、『その感情を表す言葉が何なのかを、まだ知らない』のかなと思う。




かなしい


さみしい


腹がたつ




言葉を知れば知るほど、もやもや←こういうものをよりきめ細やかな感情にわけることができて、伝えられるようになる。

その感情に対する概念や定義を知るから。



そうすると


なんだかわからないけどかなしいなぁ

なんだかわからないけどさみしいなぁ

なんだかわからないけど腹がたつなぁ


みたいな感情が少なくなって、一瞬もやもやこういう感情に振り回されても、心を鎮めてクリアにできるようになるのかなと思う。



言語化する能力を高めて、言語を多く操れると、感情の種類も多く操れて、自分も楽になるのかなと思う。



ブログはひとつのツールだけど

自分自身のアウトプット手段に使うと精神衛生も健康でいられる気がするし、書くために調べるという行為が合わさると『自分という人間をちょっとおしあげて、豊かにさせるツール』にもなり得ると思う。←私がこう出来ていると書いているわけではないです。誤解を与えたら嫌なので書き添えます。🙇




でもSNSという性質上、少しでも目立つことをしたら、多少の覚悟がいるのだと思う。少し目立つようなら倍 気をつける、倍 言葉を選びなさい、そういう空気は流れているのだと思う。

SNSをやっている→が、ネットにばかり向き合っているという考えに発展して、そんな時間があるなら、倍 ちゃんとしなさいという空気感は、、感じすぎかな、、そもそも誰しも人のことにまでそこまでさほど関心もなければ、そんな時間もないような忙しい現代か。🤣🖐️




言葉にはきびしい一面もあって


たとえばSNSは一部を切り取ったものでしかないのだけど、書いた言葉が、ときに『すべて』になり、受け取る側の判断にゆだねられたりする。


書いている生身の人間は、よいもわるいももっといろんな側面を持っていても、書いてある姿だけで、判断されてしまうことも仕方ないのだと頭では理解する。でも、生身の人間なので、言葉のナイフでさされたら血は出るし、ふさがってもまたさされたら血は出る。



物騒なたとえはよくないけれど

でも事実。



そういう側面があるけれど、大切に残したい瞬間瞬間、書き留めてよかったことが山ほどある。


日記を書き始めて9年がたった。

10年目の5月。



今日は海老カツ弁当。

最近お昼休みが忙しいからと少なめリクエストの長女。たまたま今日は気持ちを整理させたくて長くなってしまったけれど、これからも、、こんな映えもしないお弁当でも載せているくらいハードルのひくいひくい日記を、いつか目を細めてこの頃を思い返す自分のために書きたい。



次女のおかげで出会う初めてのタイプの方たちにも、気楽に生きたらいいんだ、楽しんだらいいんだと再度教えてもらってる気もする。自分の大切なことだけ大切にして、いかに毎日を気持ちよく過ごすか、本当に上手だなと思う。