慈円 じえん
(1155―1225)
鎌倉初期の天台宗の僧、歌人。
父は摂政藤原忠通、
母は藤原仲光の娘、女房加賀。
関白・九条兼実の同母末弟。
摂政・近衛基実の異父弟。
1155年(久寿2年)4月15日の生まれ。
1165年(永万元年)11歳で延暦寺に入り、13歳で出家。
1181年(養和元年)慈円と改名。
兄の兼実が平氏滅亡後、源頼朝の後援で後鳥羽天皇の摂政となるや、その推薦により1192年(建久3年)37歳で天台座主(ざす)となり、天皇の御持僧となった。
同年、征夷大将軍の宣下を受けた頼朝とも親交を結び、平家に放火炎上させられた奈良東大寺大仏殿の復興を京都から支援し、政界・仏教界に無類の地位を築いた。
後鳥羽院とは関係も深く、また歌人としても深く傾倒しあっていた間柄であったが、武家政治の評価に関しては対立。
彼は院の方針に危険を感じ、ついに1219年(承久元)に京都を脱出し、難波四天王寺に移った。
慧眼な政治哲学断想を含む日誌『愚管抄(ぐかんしょう)』7巻を著した。
『新古今和歌集』に「前大僧正慈圓」で現存歌人として最高の92首がとられている。
また『徒然草』に、「一芸ある者なら身分の低い者でも召しかかえてかわいがった」とあり、
『平家物語』成立の背景には、武家に仏道宣教した琵琶法師グループに対する彼の影響と保護があったとも伝えられている。
kakkamax※

奇しくも今日は山寺さんのドナルドダック・Birthday❤️