※【歴史】はオリエンタルランド株主として、
またウォルト・ディズニー経営哲学の研究者として、
他の人が語れないディズニーの歴史を語ります。

ってほどのことじゃないけどね。
船TDS構想は2回ボツになって。
3度めの正直ってやつで、やっと東京に開園したんだ。

前の日記からの話題。
1984年に就任したアイズナーCEOは、翌1985年から[ユーロ・ディズニー構想]を打ち上げ、フランス・マルセイユ近郊トゥーロンやスペイン・地中海沿岸に候補地を選定した。

このときに作られた計画案が《ポート・ディズニー》。
つまり、実際の港の一部を切り取って、テーマパークを建設する構想だった。
それまでのディズニーランドやディズニーワールドは、中央にシンデレラ城を据えて、すべてを惑星のように放射状に配置して、花壇の花時計のように各テーマパークを分割して並べる[内向き方式]だったが。
現実の海港の一部を開放して、海の水を入れるという考えは斬新なものだった。

しかし、これは海港付近の用地の取得がうまくいかず、結局はフランス政府が提供したパリ近郊のマルヌ県の敷地に建設することになった。
これは1985年12月のことである。

海の港に建設するテーマパーク構想はボツになったわけだが。
マイケル・アイズナーは東京でボツになったディズニー・スタジオ構想をパリに持ち込んだ。
それが現在のディズニーランド・パリ

しかし、アイズナーは《ディズニー港》の計画も高く評価しており、
イラン革命による原油値下がりで、アメリカ経済全体が失速した1989年、
カリフォルニア州ロングビーチの工場跡地を買収。
ロングビーチ港には昔の豪華客船クィーンメリー号が保存係留されて、レストランやホテルとして利用されており、
アイズナーはこれを[借景]としたテーマパークで、《ディズニー港》を実現しようとした。
あわよくば、公共資産のクィーンメリー号も買収か、運営代行を引っ張る狙いもあった。

ところが、1991年にウォルト・ディズニー・カンパニーが《ポート・ディズニー》計画を公表すると、
ロングビーチ港の市民に反対運動が広がり、
ディズニーの株主もアイズナーに計画案の見直しを迫った。
同じ時期、フランス政府も協力したディズニーランド・パリは開園から赤字が累積しており、
フランス政府も野党の批判を受けて、冷淡な対応に変わった。

この《ロングビーチ・ポート・ディズニー》が廃案になったとき。
マイケル・アイズナーはこれを東京ディズニー・リゾートに建設する提案をすることにした。

典型的な事案がディズニー・アンバサダーホテルの先行開業。

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つまり、これはもともとロサンゼルス郡ロングビーチ市のために企画されたホテルだったのだ。