
《崖の上のポニョ》にはいろいろなテーマがつまっている。
特に東日本大震災の津波と家屋水没の有り様を予告した内容は、いま考えてみると衝撃的だ。
政策科学を研究している私は、ここで舞台の一つとなっている《合築》政策に今から20年以上前に参加した経験がある。

《合築》というのは、保育園と高齢者介護サービス施設を同じ敷地に建設して、相互作用を生もうという地方自治体の福祉事業。
世間知らずの映画評論家は、これを「宮崎駿監督の理想の老人ホーム」だと過大評価したが。
実はもう東京都の杉並区を皮切りに、全国に《合築》の施設は建設されているのだ。
むしろ宮崎監督の「悪夢」ともいえる問題告発は、このような新しい施設が首都圏以外では、市街地から外れた交通がひどく不便な場所に立地していて、いざ災害があったら行き場を失って孤立無援になるということだ。
ポニョでは海岸近くの崖っぷち。
世の中の大半の高齢者施設が非難経路もない転落危険な崖っぷちにあることは公然たる事実なのだ。

アニメは災害の危険を警告するのが主題ではないのだから、マンママーレの救いがないと行政機関がきちんと自覚していれば、子どもたちや高齢者たちが津波に呑まれることはなかった。

さて、この宮崎ポニョ論(笑)の話題は、
《崖の上のポニョ》のヒドン・メッセージが宮崎監督が思い描く母親像にあったことだ。

ソースケくんの母親。
介護サービスに勤務している非正規雇用労働者だが、
勤務先に保育所もあるので、待機児童に悩む首都圏の母親には憧れだね。
ちょっとヤンキー入っている感じ。
しっかり敬語を使えない世代。
近海に数ヶ月も出ている父親を恨みながら、子どもに隠れて、生々しい肉欲も見せつける。
あれは15才禁止だよ(笑)
つまり、《ポニョ》を見ていると、いろいろなキャラクターを通じて、観客は《母親の一生涯》を見ていることになる。
それが老人ホームのおばあさんたちにつながって重なっている。
小説や映画には、こんな構造で、隠れた主題(ヒドン・メッセージ)あるいは伏線があるわけで。
こういう考え方は、フランスの現代哲学者ロラン・バルト(Roland Barthes 1915-1980)のポスト構造主義の分析方法論。
この方法論でウォルト・ディズニーの《ピノキオ》を分析すると。
次の写真に行き当たる。

兄ロイ・ディズニーの若いときの写真はあまり残っていないが。
これはグレンデールのライリック・アベニュー「レディ・カット」ツインハウスに住んでいたころ、
ハイペリオン・スタジオ時代のディズニー兄弟。

ウォルトの脚本の書き換えで追加されたキャラクター。
ジミニー・クリケットのモデルは実は兄ロイ・ディズニーだったのだ。
そして、顔はぜんぜん似てないけど(笑)
ジミニーの良心のレスキューにいつも助けられるピノキオは。
ウォルト・ディズニーその人だったのだ。
