
人の死を語ることは気が重い。
ガスで窒息した遺体は、安らかな表情であるわけがなく、目や口が開き、全身が硬直し、断末魔のような凄惨な姿だった。
それがまたウォルトに大きなショックを与えた。
以前、NHK特集で《崖の上のポニョ》のラスト・シーンをどうするか悩んでアニメのコンテが描けなくなった宮崎駿監督の悶絶ぶりが生々しく放映されたが。
宮崎さんも実の母親との関係にすごく苦悩して、同じように気が強い老婆がどんな動きをするか、ラストのつながりにイマジネーションが枯渇してしまったのだ。
最後はこの車イスの老婆が思わず立ち上がり、それはマンママーレの魔法だとわかるんだが。

「この人、本当は歩けたんだよ。歩けるのに、歩こうとしないんだ」という着想がひらめいたとき、その目には涙が光っていた。
現代の巨匠、宮崎さんもこのように実の母に近いキャラクターには男泣きするのだ。
ウォルトの場合はどうだっただろう。

1938年11月24日の夕べ、ロスフェリズ・ハリウッドヒルズのウォルト・ディズニーの豪邸には、
母フローラ、父エライアスを迎え、妹ルース、兄ロイ夫婦が感謝祭(Thanksgiving Day)のディナーに集まった。
久しぶりにディズニー家が家族団らんの時間を過ごしたのだ。

この豪邸もちゃんと残っているので、Googleのストリート・ビューで検索できる。


その翌日の深夜、フローラは風呂場で倒れ、意識不明になった。
体のよくないエライアスはすぐに妻をベッドに運ぼうとしたが、それで力がつきてしまい、外に連絡もできず、自分も意識を失ってしまった。
翌朝、出勤したメイドが遺骸を発見した。
父エライアスは病院で息を吹き返した。
兄ロイがすぐに病院に駆けつけ、ウォルトを迎えた。
「誰も悪くない。みんな、どうしようもなかったんだ」とロイは悲しむウォルトをなぐさめた。

翌1939年2月23日、ロサンゼルスのビルトモアホテルで第11回アカデミー賞の授賞式がおこなわれ、
ウォルトは超人気アイドルのシャーリー・テンプルから《白雪姫》の七人の小さなオスカーがついた特別な名誉賞をわたされた。

次回作を問われたウォルトは「男の子を主役にしたピノキオの冒険をつくります」と明言した。
しかし、その製作現場は大混乱を極めていた。
というより、ウォルト自身がこれまでになく製作現場に介入して、脚本の変更を要求したからだ。
脚本家、監督はもちろん、各キャラクターのチーフアニメーターはもうかなりの《ピノキオ》を仕上げており、ウォルトの要求にびっくりした。

ウォルトは何を考えていたのだろうか。