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ギャリティのマルチプレインカメラは、1937年に公開された、このシリー・シンフォニー《オンボロ風車小屋》で実用化され、
同年のアカデミー賞短編アニメーション部門賞を連続受賞した。

しかも配給会社はユナイテッドではなくて、RKOになっている。

技術部長のギャリティは実に興味深い人物で、
発明王エジソンの基本特許を超える映像サウンドトラック技術を発明したル・フォレスト博士の下で働き、
ディズニーの《蒸気船ウィリー》でサウンドトラック方式を工夫して、その商業的成功を陰で支えた人物。

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しかし、ギャリティは一方で晩年のエジソンと何らかの関係を維持していたらしい。

そもそもハリウッドという都市は、エジソンが基本特許を盾に、すべての映画会社に特許許諾金の支払いを要求したことから、東海岸の撮影所がエジソンの取り立て代理人の請求を拒むために、業界全体で移住したことに始まっている。

創業したエジソン電灯会社を引き継いだゼネラル・エレクトリックが設立されると、エジソンはハリウッドの隆盛を指をくわえてながめるしかなく、莫大な株式収入で孤独な引退生活に入っていた。

ディズニーがテクニカラー技術を使って、最初に商業的な成功をおさめたとき、エジソンは敏感に心を動かした。
しかし、自分自身がハリウッドにいく勇気はなかった。

エジソンは1928年に親友の石油王ジョン・ロックフェラーと相談し、後にケネディ大統領の父親となるニューヨークの投資家ジョセフ・ケネディから小さな映画会社を買収した。
その経営陣にはゼネラル・エレクトリックから人員を派遣、
子会社のRCA((Radio Corporation of America、レイディオ・コーポレーション・オブ・アメリカ)の技術を投入してサウンドトラック技術、テクニカラー技術の販売をはじめた。

しかし、ハリウッドの映画会社は、公然とエジソンの息がかかった技術をおいそれと使う気持ちにはなれない。
その中で、ディズニー・スタジオとウォルト・ディズニーは、エジソン・アレルギーはなく、テクニカラー技術を駆使して、アカデミー賞をとりつづけた。

ディズニーの躍進は、エジソンにとって同じ目的、アメリカン・ドリームの同志に映ったのかも知れない。
エジソンは1931年に亡くなったが、ハリウッドの映画業界に進出する遺志はGEとRCAに託された。

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窓口になったのは技術部長のギャリティ。
1935年から極秘にディズニーとRCA(GE)、つまり、亡きエジソンの代理人たちとの交渉がはじまった。
すでにRCAはハリウッドに子会社RKO(Radio Keith Orpheum Entertainment、レイディオ・キース・オーフィアム・エンタテインメント)を設立、他の映画会社に対抗して全米に配給ネットワーキングを構築していた。
また、RCAは特許を持つラジオを武器に、もう一つの強力な全米ネットワーク(今のNBC)を持っていた。


その誘いは。

「いま契約しているユナイテッドと関係を断ち、RKOに配給を任せないか」

それはエジソンとロックフェラーからの招待状だったのかもしれない。
1937年、ジョン・ロックフェラーは97歳で亡くなっている。


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