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西海岸カリフォルニアのハリウッドで起業したウォルト・ディズニーに対して。
まだニューヨークに拠点があったMGMやパラマウント、そしてオズワルド問題で紛争になったユニバーサル映画は必然的に《天敵》になっていた状況で。

パラマウント映画が、ニューヨークのアニメーション会社フライシャー・スタジオの《べティ・ブープ》を大成功させた。
原画はグリム・ナトウィック。
フライシャーは後に《ポパイ》、《スーパーマン》を手がけ、西のディズニーとアニメーション業界の2大勢力を築いた強力なライバル。
その背景には、発明王エジソンも技術協力していた。

ディズニーが《小人たち》の踊りでアニメーターたちを訓練していたレベルで、
動きは少ないものの、マリリン・モンローみたいなセクシーな可愛い子ちゃんが出てきちゃった。

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加えて1929年からアメリカは世界恐慌に見舞われた。
フライシャーもなりふりかまわず、ナトウィックの原画では16才の少女の設定だったべティを下着姿にし、ウェストをくびれさせ巨乳にした。

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これに対して。
ディズニーの《シリー・シンフォニー》はアンデルセン童話集の「みにくいアヒルの子」。

いまで言ったらさ、日曜朝の同じ時間帯に、片方は《アニメ日本ばなし》、片方はハンコックみたいなセクシーな美女が出る《ワンピース》をやってるとするよ。

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まあ勝負にならないね(笑)
親がチャンネルを変えても、子どもが泣き出すわね。


このべティ・ブープの大ヒットのあおりで。
ディズニー・スタジオはコロンビア映画から契約解除を言いわたされた。
要するにクビっビックリマーク

しかし、さすがにコロンビア映画はディズニーに最後まで契約金を支払った。
しかし、次回作はもうできてるし。
困った。困った。

しかし、ウォルト・ディズニーは意外なところに配給交渉を申し入れた。
あの不機嫌なチャップリンがいるユナイテッド・アーティスツ。

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交渉カードはこの原画。つまりテクニカラーのアニメーション。
ミッキーでかなり金持ちになっていたウォルトは、ここで負けてなるものかと。
ニューヨークから憎きべティの原画作者グリムを呼び寄せ、ハミルトン・ラスキと協力させて、思いきった美人画のアニメーションにチャレンジさせたのだ。
フライシャーのセクシー路線から放り出されていたグリムも、仕方なくハリウッドにやってきた。

ところが最初にグリムが出してきた原画は、べティの変形みたいなもので。
ウォルトは激怒して、「こんなんじゃダメだ」と喧嘩になったらしい。

次にグリムが持ってきた原案は、フランスのアールデコ名画の巨匠アルフォンゾ・ミュシャを参考にしたものだった。

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これにはディズニーも大喜び。
グリムは名門シカゴ美術学院を卒業したエリートだったので、ミュシャの模写は授業レベルでやっていたのではないかと思う。

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「これは使える」と思ったウォルトは、さらにグリムに強く要望を出した。
チャップリンと並ぶユナイテッド・アーティスツの共同創立者、
大女優メアリー・ピックフォードの似顔絵を描け、と。

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絶世の美人女優ピックフォードはユナイテッド社の社長で俳優のダグラス・フェアバンクスの奥さんだった。

テクニカラーの原画を目にしたユナイテッドの担当者は息を呑んだ。
「これは断れないよなぁ」

しかし、チャップリンが反対した。
「ウォルトは信用できない。こっちに来るならミッキーマウスも連れてこい」

ウォルトはチャップリンに謝罪し、要求をすべて受け入れて、ユナイテッドで公開された《シリー・シンフォニー》はすべて(出演していないが)ミッキーマウスのネーム・クレジットをつけることになった。

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これはちょっと屈辱なんだよね。
「ウォルト・ディズニー、お前はまだ無名なんだから、ミッキーマウスの名前で仕事をしろ」と、チャップリンから蹴飛ばされたわけ。

もちろん、ディズニーは内心はものすごく嫌だったと思うけど。
彼は仕事をやりつづけるため、コロンビアを追い出されたばかりのディズニー・スタジオのアニメーターたちのために屈辱に耐えなくちゃならなかった。

そしてユナイテッド社の下で、ディズニー・スタジオは1932年(昭和8年)史上初のテクニカラー映画を発表。
この《花と木》はついに1933年、アカデミー賞短編部門でオスカーを授与された。

ウォルトの《白雪姫》は一歩実現に近づいた。
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