高尾山古墳の保存は、3
回の協議会
から「両立のための道路案」が示され、壊されるしかない状況からは、大きく前進したかに見える。道路案には課題も多い上、最終的な計画案次第では、まだまだ余談を許さない状況ではあるが、一時の悲観的な状況よりはましになったと考え、「古墳を生かしたまちづくり」を模索することで、保存以降の機運を高めたいと考えるようになった。
以前の記事でご紹介したように、古墳は国道1号線や新幹線に挟まれた場所に位置するため、保存が叶った際にも、観光資源として利用できるスペースが限られる。保存することに意義を見いだそうとしない人たちの中には、「駐車場のスペースもないのに、観光資源になるのか」という反対意見もある。
この反対意見だけを意識しているわけではないが、呼び物(今回の場合は高尾山古墳)の近くに駐車場を作るかどうかという議論では、訪問してくださる方はそこに来てオシマイ、ということになりかねない。もちろん、車は主要な交通手段であろう。しかし、近くに駐車場ができないのであれば、それを逆手にとって少し離れた場所まで車で来て頂き、ちょっとだけ歩いてもらうという形で、地域とふれあう観光はできないだろうか、と考えた。どこの街でもやっていることかもしれないが、歴史文化資源と飲食や物産とを有機的に結びつける第一歩である。
というような、大上段の前置きはタテマエ。保存活動に共に携わっているマダムたちとともに、よく知らない街の歴史を楽しもうと企画したのが、ぷらタコりだ。私にとっては、机上で調べたことの実地探査である。
名前はもちろん、あの人気番組からである。歴史の蘊蓄を語る講座は数多くあるが、あの番組同様、①空中写真や古地図を使い地形を意識する、②実際に歩いてみる、ことで独自路線にできないかと考えた。歩きながら、美味しい店でも発見できればもうけもの、ということもある。
前の記事
でご紹介したように、正月には高尾山古墳周辺を巡ったので、今回は、これまた以前の記事
で紹介した、今はなき沼津城の痕跡を探して街を巡ることにした。
【沼津城の立地】
例によって空中写真からご紹介しよう。
国土地理院空中写真ファイル(CCB20121-C16-2)を改変
沼津駅南口を出て南に少し歩くと狩野川に行き着く。そのあたりにある中央公園は、かつて沼津城の本丸があった所なのだが、目を少し左に向けると駅から東南に向かってはずっと坂が下っている。赤点線の上側と下側では標高が3~5mぐらい違う。駅~城跡は川沿いの土地よりも高いのである。この高まりは何だろうか?
調べてみると今から2,900年ほど前、富士山は東側斜面で山体崩壊をおこし、岩屑なだれが御殿場あたりから黄瀬川を駆け下ったとある。このなだれ、御殿場泥流とも呼ばれるが、その南端が狩野川まで達した(一部は川を越えている)ということだ。御殿場あたりでは10mほどは埋まったようだが、沼津近辺でも数mはあるのだろう。富士山がつくった地形なのである。ちなみに、下記静岡大学理学部の小山研究室のHPで、この岩屑なだれのハザードマップを見ることができるように、可能性は高くないかもしれないが、心しておかなければならない災害の一つである。
【参考資料】
宮地直道「富士山の大規模噴火と山体崩壊」日本火山学会第11回公開講座資料集(2004)
さて、東海道線や御殿場線のガードがある辺りを通って、半分暗渠になっている狢川(むじながわ)が流れている。泥流は当初、狩野川までほぼ一様におおったものと考えられるが、愛鷹山を水源とする小河川の一つである(古地図から推測)、狢川によって浸食を受けた結果、小規模な河岸段丘として駅前一帯が高まりとなったと思われるのである。
【歩いてみると】
ということで、去る2月26日(金)午前10時。沼津駅前を起点に6名で歩いた。
実際に歩いたコースは上記記地図(以前の記事のものを流用)の赤矢印(ほぼ時計回り)である。数字は写真に対応している(解散地点の⑮を除く)。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20160302/14/kakinokimuchi/92/17/j/t02200147_0800053313581827557.jpg?caw=800)
① 出発前の地形解説。この時、三枚橋城の初代城主、春日信達が『真田丸』に登場することも紹介した。
② 下り坂手前にある「沼津城跡」という表示板(ちょっと古い)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20160302/14/kakinokimuchi/2e/aa/j/t02200165_0800060013581827558.jpg?caw=800)
③ コインパーキングの後方に、城の石垣跡に相当する段差を発見!
(もちろんこの石垣自体は、昭和に入ってからぐらいのものであろう)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20160302/14/kakinokimuchi/2c/0f/j/t02200165_0800060013581827559.jpg?caw=800)
④ 別のコインパーキングの隅にも段差がわかる場所があった。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20160302/14/kakinokimuchi/ed/df/j/t02200165_0800060013581827560.jpg?caw=800)
⑤ 狢川の流れがよくわかる場所(たいていの部分は暗渠になっている)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20160302/14/kakinokimuchi/92/0e/j/t02200330_0533080013581832376.jpg?caw=800)
⑥ 沼津藩時代、このあたりは鉄砲操練場だったらしい。近年の町名統合までは「鉄砲町」と呼ばれていたそうである。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20160302/14/kakinokimuchi/9d/21/j/t02200330_0533080013581832374.jpg?caw=800)
⑦ この小さな橋が三枚橋である
市が建てた説明板によれば、かつて狢川に架かっていた三枚の石の橋に由来する名前だそうだ。今は細くなっているが、往時はどれほどの幅があったのだろうか?勝頼は築城に際して、この川を東側の防御ラインとしたものと思われる。城の名前もそれにちなんでつけられたのかもしれない。
ここは、昭和初期に石畳だったらしく、それを模した整備が美しくなされている。
⑨-1 あゆみ橋の下から今まで歩いて来た方向を望む
右手のイタリアンレストランのように、川の眺めを楽しめる場所が結構ある。
配付した絵図などを参照に、建物の位置関係を確認。赤白の鉄塔左側の白いビルの辺りに三層の櫓があった。
橋は中央公園から架けられているので、この高低差で東海道から見上げた城の石垣の高さが実感できるのではないだろうか。
向かい側の白いビルのあたりに大手門があったようだ。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20160302/14/kakinokimuchi/83/68/j/t02200147_0800053313581837359.jpg?caw=800)
⑫ アゴラ沼津(静岡銀行)前にも石垣が復元されている
三枚橋城は沼津城よりも一回り大きかった。このホテルの建築時(当時は東急ホテル)に行われた発掘調査で、高さ数メートルの石垣をもつ堀が見つかった。このように、その一部が復元されて展示されている。
構造などから、この石垣は、武田氏時代のものではなく、豊臣政権下に駿河を領地とした中村一氏・一栄兄弟によって建造されたものと考えられている。豊臣政権は、北条氏滅亡のあと、最大の力を持っていた徳川家康を関東に移した。彼の領地と上方をつなぐ街道筋には、封じ込めるためにポイントごとに大きな城が築かれたらしい。この三枚橋城の石垣もその観点で見るのが良さそうだ。
武田勝頼が最初に築いた城は、豊臣政権下に中村氏の手によって行われた改修(おそらく大改修)の結果残っていないのかもしれないし、残っていたとしても街の下にひっそりと眠っているのだろう。
前の記事にも書いたように、三枚橋城は、慶長十八年(1613)城主大久保忠佐の死と共に一旦廃城となる。築城が天正七年(1579)だから、現在放送中の大河ドラマ『真田丸』で描かれている時代(天正十年~慶長二十年:1582~1615)とほぼ重なるのである。そういう観点からも、街を歩きながら歴史に思いを馳せるのも悪くない。
【参考文献】
「三枚橋城趾外堀跡発掘調査報告書」 沼津市教育委員会 (1996)
池谷信之、木村聡 「沼津三枚橋城跡の石垣堀と瓦」 沼津市博物館紀要 39 第一部 1~34 (2015)
木村聡、池谷信之 「沼津三枚橋城跡の歴史的評価-本丸石垣と瓦の分析から-」 織豊城郭第15号 257~278 (2015)
隅には沼津藩時代のことや沼津城を解説した掲示もあるのだが、目に留める市民は少なそうだ。
午後の予定がある人もおられたことから、ここからは駆け足になった。いささか喋りすぎたのかもしれない。何しろカッパエビセンなのだから(やめられない、とまらない)…
絵図では搦手門のあるあたりにやってくると、期待以上の碑と表示があることを発見した。明治の初めの一時期、沼津に兵学校が造られたことも以前の記事
で既にご紹介したが、それに併設して小学校も建てられたのである。日本における近代教育を施す小学校はこの兵学校附属小学校をもって嚆矢とする。その記念碑がこの写真である。その後身はこの碑から南西へ250mほどのところにある、沼津市立第一小学校である。
最後に、堀に沿ってショッピングセンター「イーラde」まで歩き解散となった。
【最後に】
沢山のビルが建ち並び、商店街でも店が軒を連ねていることから、こぢんまりとした土地にも思えるが、沼津城だったところは結構広かった、というのが実感だ。以前の記事で、他の城郭跡と比較したが、浜松城とは遜色ない広さである。
また、要所要所には結構な数の案内板や碑が建てられていることも実感できた。観光のための基本的なインフラは既にあったのである。これらと街の店などとを結びつけることができれば、沼津港で食事をした後、直接バスで駅まで帰ってしまうのではなく、少し川縁から駅まで散歩、というような観光にもなるのではないだろうか。
【おまけ】
今回の周回コースには含めなかったが、駅のすぐ南にある城岡神社に行くと、(実際に兵学校があった二の丸御殿の場所とは微妙にずれているが)その境内に沼津兵学校址の石碑が立っている。