「在る」に浸りきる | れいのブログ

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「ある」「在る」「存在する」に浸りきる。



よくわからない時は「自分が存在している」ことに浸っていればよいのでは?

「在る」に浸りきり、自分の内側を「在る」で満たせば…あらゆる全てが叶うのでは…?

全てが在る自分になるのでは…?

そしてそれこそが別の領域、既に望むものが全て在る状態なのでは?

「不足がある」は「何かしらが無い」から発生しているので「在る」には含まれません。



在る在る在る、在るに浸る。

在る以外の思考や感情は自動反応なので気にしない、深追いしないで放っておく。

そんな暇があったら在るに浸る。

在る在る在る…とアファしてみる。

何が?望む、望んだ全てが在る在る在る。



不満不足があっても基本完全放置で全く気にしない。

ないに浸っているのは自分ではないので、ああ、自分ではない、何かがないに浸っているな、と気付いたらそれだけでOKで放置。

深く考えず放置。

あんまり難しく考えず、ただ在るという感覚を感じる。

それをデフォにする。

頭で理解するのではなく体感で。



有る有る有る…。
すべてが存在する…。

在る。
私が存在する。








現実は受け止めるもので、無理に動かすものではありません。私達が今と思っている現実は過去なんです。変えられるのは頭の中、内側でだけですよ。本当の今は内側にあります。

現実は100パーセント自分の投影です。
ただ内側が現実だと認識を変更するんです。

彼との幸せを考えるととても満たされますよね?それはどこにあるんですか?自分の中です。他の場所ではありません。
そこが別の領域です。そしてそっちが本当の現実なんです。そう認識を変更して下さい。

わからなくても、エゴが嘘だと言っても無視して下さい。内側に重点を置いてください。そのうちそれが本当だと感じられる時が来ます。

たぶんですが、内側か外側か重点を置いている方に引き寄れられるんだと思います。叶わないのは外側に重点を置いているからです。叶ったり叶わなかったりするのは内側と外側を行ったり来たりしているからだと思います。

内側だけに集中して下さい。そしたら全て叶います。
別の領域はどこか別の場所にあるんではありません。
自分の中にあるんです。
私はそれが全てあるだと思います。
それが既に叶っているだと思います。






今自分が苦しんでいるのは、「不幸」だったり「不足」だったり、自分の勝手な思い込みをそのまま採用しているからであり、それらは身がない空想なんだ。

悩みに実体はない。
確かなものは「ここに在る」という意識だけ。

苦しい感情に気づけばもう何もすることはない。
消えなくても問題はない。それは何もあなたに影響しない。

苦しみや幸せがイコール自分ではない。
気づいている立場、それが自分であり、実は常にそこにいるんだ。

苦しみがあなた自身ではなかった、と気づけばそれだけでいい。本当はみんな、苦しみから解放されたところにいるんだ。

全て「頭の中」で起きているんだ。私という思考も、苦しいという感情も、全部頭の中にしかないんだ。

自分とは肉体でも感情でも思考でもない。
それら全てを一度に感じている意識だ。

在ることを感じている意識、それだけが自分だ。 

苦しみは手放さなくてもいい。それはあっていい、でも自分に関連付けはしない。そう決める。

単にそういう夢を見ただけってことだよ。
ただそれだけのこと。 






私もあなたのように思っていた時期がありましたが、行動しても何もうまくいかず、本当に腹くくって「内面を見つめるだけ」を実施してみたら現実が動きましたよ。

最初は疑念があったから、すぐに動いてくれたわけじゃなく何度もくじけて、「何もしないんじゃ、やっぱダメなんだ」と戻りかけましたけど、いや、一ヶ月は見つめてやろうと見つめ続けました。

結果、自分は何一つ手を出してないのに、周りの人達(=世界)が動いてくれて願望が叶い出しました。

内面=世界

世界=周りの人達であったり、物であったり、です。

内面を見れば現実が動くというのは本当です。






要は観念があってそれを無効化したいという事ですね。

お答えしましょう。
今にあればいいだけです、今にあって過去の事を持ち出さなければそんなものは存在しないからです。それをわざわざ確認するからあるように見えるだけなんですよ。

今にあれば分かりますよ、生きてるだけで楽しくなってそんな事特に考えません。今にいれば過去の事を思い出してネガティヴになったり重い気分になるのは人間の自然な在り方ではないとわかりますよ。

今にあるようにしてみませんか?






止める。それは過激な提案です。止めるのを提案しているのは、今、この瞬間だけです。この先一生何もするな、家から一歩も出ず、決して物語を語らず、考えることもするな、と言っているわけではありません。私が言っているのは、今、この瞬間、すべてをストップして、ただ存在してごらんなさい、ということです。 

ババジの教えの中でも最も素晴らしいものの一つに、何が起こるかをじっと待って見る、つまり「静観」があります。「待つ」というのは能動的で開かれた行為であり、見るというのはすなわち待つということです。それはつまり、理性の細胞の中に組み込まれた、どうすればいいか、どんな行動をとればいいのかをわかっていたいという古い古いプログラミングを直視する、ということです。 

ただ静観していてごらんなさい。わからない、ということの中で、無防備なまま、 静かにしていてごらんなさい。 真実の、永続する発見というのは、あなたがこれまで誰かから聞いたりどこかで読んだものとは違います。 それはあなた自身が直接体験することなのです。

今、この瞬間、努力しなくてもそこにあるものの存在に気づいてごらんなさい。これは、最も簡単で、最もシンプルで、そして最も自明の真理です。このことが長年にわたり知られずにきたのは、それがあまりにもシンプルですぐにも手に入るものだからです。

「止める」というのは訓練ではありません。それは単に、尽きることがないように思われる思考の流れの中に、思考を追いかけないという選択肢があることに気づく機会です。 思考を追いかけないことで理性は停止し、ここに存在するもの、じっと沈黙し、常に止まっているもの、それが姿を現します。

今この瞬間、その場で止まってごらんなさい。あなたが、充足を与えてくれると思うもの、真実を与えてくれると思うものが何であれ、それを手に入れようという努力をすべて止めてごらんなさい。必要なのは、ほんの一瞬、本当にそれを止めることだけです。






まず「今の自分の意識状態」を感じることから始めてみてください。

やり方は簡単です。

目に触れるものを観て、どう感じるのか?をただ知る、ということをします。

目の前の花を見て、あなたはどう感じるか?

外の天気を感じて、どう感じるか?

自分の目の前にいる人をよく観察して、何を感じるだろうか?

大切なのは、
「意識を変えるためにどうするか?」
を知るより、
「今、どんな意識でいるのか?」
を知ることの方が大事だし、結局は一番ニュートラルなんです。






現状は、過去の自分の前提、セルフイメージが目の前に現れているだけなので、もう終わったことです。

今この瞬間から自分に対する前提、設定を変えていけばいいだけのことですよ。過去と未来は繋がっていないですから、今この瞬間からどんな設定にもできます。

目の前にある世界に悩むの勿体ないよ。それだと、また同じ世界が続くだけ。
だから現状無視が大切なポイントだと言われていますよね。
自分のことをこんな程度だと思っているから、こんな世界が現状として現れているだけ。

恋人とのことも、自分が一人コントしているだけです。
自分の前提通りの結果を見ているだけです。
だから例えば、酷いことをされたとしても、全部自分が相手を使ってまで一人コントしてるんです。
それに早く気づくことです。外を見るのは無駄です。

あー、私は自分のことこんな設定していたんだー、
今からもうやーめた~。
で、あとは望む方にフォーカスです。






外界から丹念に注意を戻し、内界に集める作業を毎日続けてください。じっくり決めた想いや気持ちに集中すれば、あなたを制限しているものは自然と崩れます。

このレベルを超えるには、現在の自分も、自分に対する今の考えも、すべて捨てなければなりません。そのためには、今あるすべての問題や制約から意識を逸らし、ただ「在る」ことを感じましょう。「私は在る」と、声には出さず心の中で「感じて」ください。まだ意識の内容を決めてはいけません。「私は在る」と唱え続けてください。意識が次第に膨らみ、姿も顔もない、ただ「在る」という感覚に没入できたな ら、次はその形のない意識の奥底で、望んだ通りの自分になっていると「感じて」ください。この時、新しい意識に初めて形が与えられます

現状を変えたければ、自分の意識を変えるほかありません。なぜなら、意識こそが現実だからです。あなたが意識することは、絶えず、あなたの周りの現象となって現れます。私たちの人生は、どんなに小さな出来事も、意識の反映なのです。

沖へ到達するには、今ある問題や制約から「注意を逸らし」、そこから離れなければなりません。今あるすべての問題と制約に、完全に背を向けましょう。そのためには、「私は在る」、「私は在る」、「私は在る」と心の中で繰り返えし、自分がただ「在る」と感じてください。この宣言に、まだ何も加えてはなりません。自分ががただ「在る」ことを「感じ」続けてください。そうすれば、ある日突然、あなたを問題だらけの浅瀬に縛りつけていた錨が外れ、沖へと漕ぎ出せるようになります。






体外離脱も明晰夢も、すべて同じストーリーの中なんですよ。そして求めている多幸感もストーリーです。

とりあえず追い求めるのはやめて、一度立ち止まってみてください。 「ここ・今」に立ち止まるんです。


で、今今メソッドについて話しますと、

すっからかんな部屋=貧乏

と思考が言ってるだけなんですよね。

部屋がすっからかんでも銀行に億を眠らせてるかもしれません。

でも「銀行には1000円しか残ってない」 という記憶=思考がまたまた主張してるんですよ。

ここ、今自分がいるまさにここ。

この瞬間。

思考に惑わされず、「ここ・今」 を見ると、すっからかんかもしれませんが、貧乏とは何も関係ないということがわかります。続けて見てください。






あなたの全存在をもって、ただこの瞬間に存在する。

あなたのすべての感覚を眠りから目覚めさせよう。

深呼吸して、そこに存在する気持ちや感情が何であっても、ただそれらと共に存在しなさい。

できる限り、くつろいでこの瞬間に存在するんだ。



* 



なぜ「私」という想念を起こす必要があるのか?

努力や非努力という想念の起こらない場所、「私」という想念さえ起こらないその場所にとどまりなさい。

そこではすべてが静かだ。それはそれほどにも静かなため、言葉は妨げとなる。


心は過去だ。

もしあなたが現在に在れば、心というものを見ることはない。

現在の瞬間に心を見ることはできない。この存在を言い表す言葉は存在しない。



 *



人生を本当に理解するただひとつの道は、自分が生きている直接の体験をよく見てみることだけなのです。

現実のことを知りたければ、人の言うことに頼ることはできないのです。

自分が今この瞬間に体験していることに意識を向け、自分で発見していくしかないのです。

そして、もし今という瞬間にもっと意識を向けるようになると、人生は夢と似ているということにあなたもきっと気づくだろうということです。






記憶を断ち切って自由になる 

「今にある」って言葉はちょっと漠然とした表現なんで、いまいちピンと来ない方もいるかとは思いますが、簡単に言えば記憶喪失になることです。

エゴというのは早い話が記憶ですから、その記憶をポイしちゃえば、今いる「自分の部屋」がただの「部屋」となります。その状態が今にある状態です。思考を介在させてはいけないとか難しいことを考える必要はありません。景色を景色として眺めるだけです。そこに思い出なんかを付着させずに。すると何だか世界を傍観しているような心地になりますが、それが本来の世界だったりします。 

まあ、そんな如何にもスピ的な話でなくとも、記憶というものは私たちの心に色んな縛りをかけています。 

例えばある人に片思いをしているとして、その人が仮に海外にいたとします。そしてその海外にいるという情報が記憶としてインプットされると、「日本に住んでいる私は出会うことなんてできないわ」と記憶を持ち出しては制限をかけてしまうんですね。現実的な話としても、今その片思いの人は何らかの都合で日本に帰って来ているかも知れないですし、可能性はあるはずなのに、勝手に自らシャットアウトしてしまっているんですね。つまり記憶というものは世界の可能性、ひいては自分の可能性を縛っているわけなんです。 

しかし本来の我々は何にも囚われない神のような存在ですから、そんな一個人の記憶に縛られるようなちっぽけな存在ではありません。今この場に好きな人がペガサスに跨って現れることを望んでも構わないわけです。誰もダメだんて言ってませんよね、そう、自分(エゴ=記憶)以外は。

ですから記憶という如何にも人間的な習性を捨て、自由になればいいんです。なればいいというか、デフォルトが自由なんです。神なんです。神が記憶に囚われてしまったせいで、ちっぽけな人間を演じるハメになっているだけなんで、その記憶という鎖を思い切って断ち切ればいいかと思います。






いいかね、よく聴くがいい。
どのような方法も、必要ない。
必要ない、ということが方法である。
ただ、沈黙して〈在る〉こと、それが方法である。
〈在る〉という思考や想念や観念を超えたところに〈在る〉こと、それが方法である。



なんであれ、あなたが何かを価値判断し、分別、決定することは、あなたに限界を作り出す。限界とは束縛である。
あなたは、あなた自身の手によって、あなた自身から自由を奪い取っている。

なんであれ、あなたが何かを価値判断し、分別、決定することは、あなたの勝手な自己解釈で、あなたの勝手な見方で、その対象を裁くことである。
そして世界には唯一の〈私〉しか存在しないゆえに、それはあなたがあなた自身を裁いたことになるのである。
あなたは、あなた自身の手によって、あなた自身が起こした原因の結果を受け取ることになるだろう。
もしあなたが、何も価値判断、分別、決定しなければ、もしあなたが、その時に何も考えなければ、もしあなたが、浮かんできた考えが事実そのものではないと理解できれば、世界は、ただありのままに存在している。
その世界には、何の意味づけもされていない。
何の意味づけもされていないがゆえに、束縛なく、限界なく、すなわち自由である。
世界とは、あなたを映し出す鏡である。
ゆえに、あなたは自由を手にすることになるだろう。



あなた自身を観るがいい。
あなたが、何をどのように観ているか、人や状況に対して、どのような見方をしているのか、ただそれだけを見直しなさい。
世界自体に、まったく意味はない。
世界自体に、まったく問題はない。
あなたの抱えている観念が問題なのである。
それを、よくよく熟考するがいい。



思考自体に問題があるわけではない。
湧き上がる思考に巻き込まれること。
つまり、その思考に捕らわれること。
その思考を自分だと勘違いして、思考そのものを追いかけ続け、考え続けること。
いつまでも、「自分が」こう考えている、と認識していること。
それが唯一の妨げなのである。
思考に捕らわれればまた、物語にも捕らわれる。
それは〈私〉が人生と呼んでいる物語だ。
思考に捕らわれなければ、物語にも捕らわれない。
なぜなら、物語とは思考であり、思考がないところにいかなる物語も存在しないからだ。
もちろん、目の前には世界の景色が広がっているだろう。
だがそれがなんだというのか。
どんな意味づけもされていないただ〈在る〉景色、そこには一切の物語がない。
むしろ、そこには美が溢れている。
美そのものが。
だからまず、思考との誤った自己同一化を見破りなさい。



今!
この瞬間!
ただ、全てを手放しなさい。
『私は、思考を放棄する』と思考に言わせて、
つまりあなたが言って!
それから〈在る〉を選択しなさい。
それからは、ただ在り続けるのだ!
いかなる思考が浮かんできても、
ただ完全に見守るだけにするのだ!
いかなる考えも放棄して、ただ流れるままにさせるがいい。

仮に、いつの間にか、知らず知らずに思考に捕らわれてしまっており、
幻想に捕らわれてしまっていても構わない。
気づいた時、
またあなたが『思考を手放す』と言って、それからまた在り続けなさい。
もしも教えのことを考え続けて、
私があれこれ考えている、という感覚があるならば、
それは、単に思考と同一化していることに他ならないのである。

いかなる教えも、知識も、意味がない!
いいかね、どのような例外もない。
教えも、単に言葉に過ぎず、知識に過ぎないのだ。



さあ、それではしばしの時間、
〈在る〉ことに身を委ねよう。
目を閉じ、静かになりなさい。
心が騒いでいるなら、呼吸に意識を向けなさい。
無理にゆっくり呼吸しようと思わなくていい。
ただありのままにさせなさい。
ただ呼吸を観ていなさい。
思考や観念がやってくるだろうが、
空を漂っていく雲のように、完全に手放しで放っておきなさい。
それはあなたではない。
透明なスペースを感じなさい。
その中に安らぎなさい。
無、
空、
〈在る〉
ただ〈在る〉ことに身を捧げるのだ。