今 ~① | れいのブログ

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今に在るのは超絶簡単。
無にあるのは超絶簡単。

次は、どんな思考/感情が現れてくるだろうか? 私とは何か? この現れ(この思考、これらのこと)は、どこに起こっているのだろうか? 今ここに現れているものだけを、ただ見て感じる。

思考を観客席から眺めるようにする。
体の感覚に注視し、何もしない時間を持つ。
‘私’に意識を集中する。






マスターよ、この「今」という瞬間の「在ること」だけが存在するのだ。

重要なのは「今」である。 

あなたは「今」という瞬間の産物なのだ。

あなたは自分の人生を、「今」という瞬間の中で生きている。

あなたの未来は、この「今」の中で創造されるのだ。

この「今」という瞬間の中で、「ただ在る状態」で真に生きるということは、自己を表現したり、拡大したりするのを妨げる法や支配や規則なしに生きるということである。

あなたが「ただ在る状態」で生きるとき、重要なのは「今」だけである。

つまり、過去でも未来でもなく、「今」だけが重要なのだ。

なぜなら、それこそがまさに、神が生きている場所だからだ。






今この瞬間に焦点を合わせるだけです。
ネガティブになろうが今この瞬間に焦点を合わせるだけです。

思考や感情を働かせないで、単純に今この瞬間に自分が在ることを感じればいいだけです。感じるんですよ。特に瞑想などをする必要はありません。

メソッドをすれば現実が変わるというわけではなく、メソッドをして内面が変わると現実が変わるわけです。安心感を感じることが大事かと。いまのあなたの認識が、いまの自分の環境を精査して、感覚や感情を自分で作り出し、体感していることに気付くことです。

今今メソッドは現状に満足するということではありません。本当に今この瞬間に焦点を合わせるだけです。そうすると安心感が感じられるはずです。今さえあれば誰でもできます。簡単です。今に焦点が合えばなんでもいいですよ。言うのもありですし、言わないのもありです。ポイントとか特にないです。今さえあればどこでもやれます。

今今メソッドを難しく捉えない方がいいですよ。すごく簡単ですので。難しく捉えてしまうからできなくなってしまうのです。
今今メソッドとは別の領域を感じることです。別の領域に常にいるんですよ。だけど、エゴによって気づくことができません。実践してみて自分で試行錯誤することが大事です。






個人的に、気づきを得るのに一番手っ取り早いと感じたのは、思考を止めて、今にただ在ることを、気づいたときにしていたのが役に立ったかなとおもいます。

あとは、自分の体も含め、認識できる世界をただの映像として捉えてみると、体感として、何か気づきがあるかもしれません。

理解しようとせずに、とにかく、ただ「在る」自分でいれば、真実の姿が顔をのぞかせてきます。

真実はめちゃくちゃシンプルです。自分がいるから世界がある、ただそれだけのことです。
だから、世界=自分です。

「ない」という気持ちを持っているから、「ない」という風に見えていて、そのように世界が展開しているだけです。
何かが「ない」ように感じているのなら、とりあえず、そういう世界を「自分がつくっている」ということを、心から認めてみてください!






在ることを試みなさい。ただ在りなさい。
重要な言葉は「試みること」だ。
もしあなたが忍耐強くあれば、失敗はありえない。

「私は在る」に気づきの焦点を合わせつづけなさい。あなたが在ることを覚えておきなさい。あなた自身を絶え間なく見守りなさい。

「私は在る」という感覚をつかみ、それ以外のすべてを除きなさい。

あなた自身で在るために、あなたがあれやこれだと想像することをやめなさい。ただ在りなさい。

あなた自身を、あなたの自己の存在を見なさい。ただよく見て、見いだすだけなのだ。すべての想像を捨て去りなさい。

すべての精神的内容、すべての想像と努力を空っぽにしなさい。

ただ、あなたが在るということに気づいていなさい。そして気づきつづけなさい。

何もすることはないのだ。ただ在りなさい。何もしてはいけない。在りなさい。



世界があなたにとって、それほどにも圧倒的に現実のものとして現れるのは、あなたがそれについてつねに考えているからだ。それについて考えるのをやめてみなさい。そうすれば、それは霧のなかに消えていくだろう。

あなたは、あなたが考えているような個人ではないということを理解しなさい。あなたがあなた自身だと考えていることは、単なる想像や思いつきにすぎないのだ。

もしあなたが期待や記憶を取り払い、ただ静かにしていることができるならば、出来事の織り成す美しい模様を見極めることができるだろう。

さあ、静かにしなさい。ただ、静かにしなさい。あなたはほかに何もしなくていいのだ。 

為すべきことは、すべて平和と沈黙のなかで為すことができる。心を乱される必要はないのだ。

もしあなたがただ静かにするように試みるならば、仕事、仕事のための能力、正しい動機、すべてはやってくるだろう。

今、静かで在りなさい。そうすれば、すべては正しい場所に収まるだろう。

ただ、「私は在る」という感覚をつかむ必要があるだけだ。

さあ、静かにしなさい。いつまでも思いめぐらしていてはいけない。止まりなさい。沈黙しなさい。



あなたが全宇宙の深遠な原因なのだ。すべてはあなたが在るゆえに在る。この要点を深く、確実につかみなさい。そしてそれについて繰り返し熟考しなさい。このことが絶対的な真実だと悟ることが解放なのだ。

唯一、正しい場所は内側だ。外側の世界は、助けにもならなければ妨げにもならない。

未来に向けてのあらゆる働きかけを放棄しなさい。完全に、今に集中するのだ。起こるがまま、人生のあらゆる動きに反応することだけで関わっていきなさい。



頭に浮かぶ一つひとつの考えを真実と見なすたび、たくさんの苦しみ・不幸が怒涛のように押し寄せてくる。

出来事は人を不幸にすることはできない。人間を不幸にしているのは、他でもない「自分自身の思考」だ。

あなたを不幸にしているのは、出来事に対するあなたの解釈、あなたが自分に話し聞かせている私のストーリーなのだ。

「今、自分がこうして巡らしている思考が私を不幸にしているのだ」

この気付きによって、思考と一体になってしまう無意識の習慣から脱却できる。

もし怒りや痛みがあるならば、その怒りと痛みからあなた自身を切り離しなさい。

客観化は解放への第一歩なのだ。

物理的な出来事は起こりつづけるだろう。
だが、それら自体には何の重要性もないのだ。

(自分に集中すること。自分の内面だけに集中すること。)






ただ静かにしていなさい。これが方法だ。これなくして、どこにも平和を見いだすことはできない。行うことや考えることが平和を生み出すことはないのだ。




(すべてを忘れて、ただ在ってみる。何もしなくていいんだよ)


自分自身を見過ごすことを止め、ただ単純に、徹底的かつ絶対的に「じっとして」ごらんなさい。少なくともひととき、あなたの考えを放棄するのです。探し回るのを止めてごらんなさい。求めるのを止めるのです。そしてただ在りなさい。



今この瞬間、あなたがどんなふうに何を探し求めているにしろ、それを止めてください。あなたがそこに平安と幸福を見出だそうとしているのが、たとえどんなものであれ、ほんのひとときの間、それを完全にストップしてください。

何もしないでいなさい。すべての行為をストップしなさい。信じることも、探し求めることも、言い訳することも。

動いてはいけない。何かに向かって動くことも、何かから遠ざかることもしてはいけない。この瞬間に、じっとしていなさい。

意識朦朧状態だのトランス状態に入れと言っているのではありません。ただ、あなたの心の中にある静寂へと、より深く入っていくのです。






「自分」に距離を置く
ただそれだけなんだ

何かをしている自分
何かを考えている自分
まるで他人をみているみたいに
意識を離してみよう

コツとしては
少し後ろから自分を眺めているような
そんな感じが”距離”をつかみやすい

この「距離感」によって
心に巻き込まれなくなる

むしろ心は
右から左へと自動的に受け渡しをしている
単なる交通整理のような機関だったとわかる

そしてまた意識を俯瞰させることで
起きている出来事を心の解釈を介さず
純粋あるがままに察知できるようになる

だがあなたは言うだろう

「他人や物事に常に決断を迫られているのに
そんな悠長なことしてられませんよ」

「今月の支払いはどう考えるんですか?」

だがそういう心を
他人事に見える位置まで離れるのだよ






目の前のTVの画面や、机や、石や、景色に意識を向けるのと同じように、自分の思考に意識を向けること・感じることが出来ればいいんです。

感情や思考に囚われてしまっても、そのたびに気づいて、エゴ・思考や、感情と距離を置くだけです。

思考や感情に巻き込まれることは、必ずあることですので、完璧を目指さないでください。

思考や感情に巻き込まれても、気づいた時点で距離を置けば、それでOKです。






辛いと感じる根拠は何なのか?

嫌な思考が何度も頭の中をよぎるのにプラスして、多分そんな時は感情がモヤモヤしてると思います。

嫌な思考には気づきやすいと思います。

しかし感情がそのままとなってる場合、思考が消えても残った感情に引きずられ、またまた嫌な思考が湧いてくるのループで疲れますよね。

そんな時は感情に向き合うとか感じ切るとか言いますが、よくわからない方は試して見てください。

感情とは、思考によって引き起こされた肉体感覚である。ってことがわかりますでしょうか。

胸の辺りが締め付けられるような肉体感覚であり、それは拳を握りしめた時と同じ、ただの圧迫感でしかないということを自己観察してみるんです。


感情=ただの圧迫感


感情=嫌なもの、逃げたい感覚。
という観念が自身を苦しめています。

ただの圧迫感と気づけばどうってことないものです。ここに気づけばスーッと不快感が消えて行きます。

ただし思考もただの記憶、雑音、ただの頭の中の音、ただの映像であり、今この瞬間に起きていることとは何ら関係ないということに気づいていなければ、思考と感情の連鎖がループします。

自己観察に慣れてきたけど感情に引きもどされやすい方は試してみて下さい。






まず今今メソッドをざっくり説明しますと、今今メソッドは今この瞬間にギュッと集中するものではなく、「今起きていることに気づく」というものです。こう書くと意味ありげな感じですが、そのまま普通の意味です。

例えば、

・今聞こえる音に気づく

・今触っている物の感触に気づく

・今見ているものに気づく

などなど、五感を通して感じるものに気づいて行きます。つまり本当にただただ今起きていることだけに気づくだけです。

身体の感覚に気づけたら次に、頭の中のおしゃべり、思考に気づきます。

この時のコツなのですが、“思考の内容は気にしない”ようにして下さい。内容を捉えてしまうと、そのまま思考に引きずられていつの間にかどっぷりハマります。

思考の内容は気にせず、ただの雑音のように感じられる、思考が空回りしてるように感じたら成功です。

ここでわかることは、思考も五感と同じように 「今起きているただの現象」と言うことです。感覚的には、五感&思考という「現象」に気づく感じですね。思考を物体のように捉えるのも良いかもしれません。

ここまでつかめると、記憶も思考であることがわかり、記憶を元にした未来の心配事も思考であることがわかり、とにかく今にあり続けることができます。

この「五感&思考に気づいてる視点」こそが別の領域と呼ばれるものかと思います。ただ、別の領域を探そうとすると思考に呑まれますので、このことは考えず「五感と思考に気づいていたらいつの間にか別の領域にいた」となるのが初めはベストかと思います。






今、たった今、思い込みや常識、記憶を脇に置いて今をよく見てみる。

どうだろう?願望は叶っている?叶っていない?

もし「叶っていない」と思ったならば、何を見てそう思ったのだろうか?

過去の記憶を見たから叶っていないと判断したのではないか?

もしくは「このような状態では叶ったとは言えない」という思考を見たから?

もう一度、「今」だけを見てみる。

よく「今」だけを見た時、そこは叶っていないとも言えるし、叶っているとも言える、フラットでニュートラルな場所ではなかろうか。

これからどうとでもラベルを貼れる無限の可能性を持った創造の分岐点ではなかろうか。

「いや、○○がないよ」と思ったならば、それはまた思考を見ている。






そうです!すべて思考が記憶を参照してそのように主張しているだけなんです。

今をよく見てみてください。
今あるのは、寒い部屋と、頭の中の記憶だけかと思います。寒い部屋=貧乏と思考が結びつけているだけなんですよ。

もっと言うと、あなたの後ろには何もなく、見ている壁の向こう側にも何もないんです。ついでに言うなら自分だっていません。記憶という思考を参照して、私はいると思考が主張してるんです。
この辺は今今をやればわかってくると思いますね。今には個人としての私もいないと。

思考思考とうるさいですが、今今メソッドで本当の自分はまっさらなキャンバスみたいなもので、記憶(エゴ、思考)はそこに塗られた色であることに気づけたら、今度は新たな色(エゴ、私)を塗るのも面白いかもしれませんね。これって「なる」ですよね。






ひとつ忘れてはいけない執着があります。
自分自身ですね。
これは根本の執着ですよね。
この根っこが枝分かれして様々な執着を作っています。

ですから、執着している考えを観ると同時に、 執着を作っている根本の自分自身というものをよく観ることが肝要かと思います。

ひたすら自分に焦点を当て続けることにより、自分自身への執着を減らし、また自分とはどんな存在なのかを観察することにより正体を見抜いて行く。これが方法かと思ってます。






自己って記憶の塊じゃない?

過去の記憶があるから「私とはこれこれこうである」って決めてるんだよね。

そうやって自己の性格だったり、境遇だったりを自分で決めているんだ。

過去の経験を基に今の自分を作ってるんだよ。

それを一回解体する方法が、今に在ってみるってやつ。

今だけに集中し、記憶を持ち出さなければ、今の自分って何者でもないでしょ?

何者でもないけど、ちゃんと世界はある。

それを「自分はいない」とか「私=世界」とか言ってるんだ。

ここまでが自己解体。

自己創造は、
自分は本来何者でもないんだけど、今まで過去を基に自分を演じてきていたなら、そんな過去に囚われずになりたい自分になれるよねってこと。

実際に過去の自分像に囚われず生きていくと、本当に変わってくるんだよね。

具体的にそれを知る方法は今今メソッドか、自己観察かな。

どちらも思考(思考は過去に覚えたこと、記憶)を採用しない。「今」に在る。

簡単に言うと無思考か、思考が起こってもそれと一体化しない状態。

その状態がわかるようになってきたら、今度は意図を持つ。

意図も思考だけどね、今までの制限された思考ではないよね。

今までは意図が起こっても、記憶が制限となり「私には無理だ」とか「そんなことありえない」とかを採用しちゃってた。

そんな制限思考は横に置いて、意図だけを持つと、いずれ起こってくるんだよ。






この10年、本当にいろいろ苦難がやってきました。それを乗り越えてきて、はっきり言えるのは、問題が起きた時、、一番早く解決する方法は、

「自分の機嫌を取ること」

「自分の中心に戻ること」

大変だと思う出来事が起きて、どうしよう~、とオタオタするのは当たり前ですが、問題を解決しようとして、色々策を練っても、結局うまくいかず、却って複雑にしてしまうことは多々ありました。

結局、今までの経験上、一番早く問題が解決されたのは、

「自分の中心に戻り、落ち着くこと」

それに集中してると、物事が勝手に動き出し、自然に問題が解決される。

頼んだわけじゃないのに、助っ人が現れたり、必要な情報が現れたり、状況が変わって、問題ではなくなったり。

このやり方は、太鼓判です!!






自我はあってもかまいません。
自我とは別の、内なる静寂に気づけばいいのです。

自我に気づきながら、内なる深層に広大な静寂がある事に気づく。これがまず必要です。

そのために、マインドの働き(雑念、思考)を止めてください。

眼を開けて行ってください。

自我意識に映る世界と、深層にある静寂の両方を感覚することで、より内側がくっきり感覚できます。

内側が感覚できるなら、次は自我を気にせずに放っておいてください。

内側だけに注意力をフォーカスしてみてください。

ただ、内側にくつろいでください。

静寂を感覚し続けてください。






沈黙することを学びなさい。静まった心に耳を澄まし、吸収させなさい。






叡知は静止することによって、身につけることができます。なにはともあれ、見つめてください。耳を澄ませてください。それ以上、なにも要りません。




沈黙と親しくする


本当はすべてが一つで分離がないのにそのことを忘れてしまうのは、思考の世界に閉じ込められているから、思考が作り出した物語(ストーリー)と同一化しているから、思考の内容をそのまま信じてしまうからです。

 思考の世界(分離の世界)から抜け出して、今ここにある幸せを感じるために必要な、三つの基本的なことをお伝えします。頭で考えすぎてよくわからなくなったときは、いつでもこの三つに戻って下さい。

1、沈黙と親しくする
2、身体の感覚を感じる 
3、ありのままを認める

ここで大切な沈黙とは、頭の中の沈黙です。

誰にでも、ときどき頭の中の言葉の流れが一瞬止まって、しんと静まり返る瞬間があるはずです。できれば、思考が止まったその瞬間に気づいて、意識的にその静かな感覚、何もない感覚を味わって下さい。
沈黙に気づいたまま、沈黙の状態にいて下さい。

思考の隙間、思考のない瞬間に気づくだけでもいいです。
一回はほんの短い時間でもいいので、1日のうちに何度も何も考えていない瞬間に気づくようにして下さい。

沈黙と仲良くすること。沈黙と親しくすること。それだけで生きる感覚が変わってきます。すべてが一つにつながっていることが実感されてきます。人生に新しい質が流れ込んできます。






認識変更は、思考の罠から抜け出すことです。

今まで思考に振り回されて、思考の世界に生きていた自分から自由になることです。

思考から抜け出せたなら、いつまでも「今」しかなく、「今」だけしかないということに気づくことです。

幻想である過去や未来に自分が脅かされないようにすることです。

「今」しかない。
それに本当に気づけるかどうかです。
頭ではなく全身できづけることです。

「自分の家(=今)に引き返してる途中」と思っていながら、実はもう自分の家の中にいたとしたら驚きませんか?
実際は自分の家にいるのに、「ここは自分の家じゃない」としていたら、何かおかしな感じですよね?

実はもう、ずっと家にいながらにして、狂気を見ているんですよ。
その狂気から覚めることなんです。

あなたは家(=今)には居ます。
ただ、あなたの家でつけっぱなしにしている、思考、想像、記憶という、テレビやラジオに入り込んで怯えているんです。

自分が家(=今)にいるのに、テレビやラジオ(思考、想像、記憶)の世界に入り込んでしまうという狂気にいるんです。

だからあなたはテレビやラジオ(思考、想像、記憶)を消して、今この瞬間に戻って家にいたんだと気づくんです。

無意識にテレビやラジオをつけてしまうことはあります。
だけど、いつでも家に居ると気づけば、それを消せばいいだけです。

別に忘れても構わないんです。
ただ、戻る場所は知ってるんだから、安心して色々できますよ。

大事なのはずっと家に居て安心してる事じゃなくて、人生や世界を味わうためだから、いつでも安心な場所に居ると知ってればいいというだけです。


どこに出かけても「今は今」ですよね
ここに、皆さんが勘違いするポイントがあるんです。

どこに出かけても今は今です。
ですが、今というのが頭ではわかっているけど、実際は外側のテレビやラジオ(思考、想像、記憶)に意識がいってしまっているんです。

大切なのは「場所や状況じゃない」んです。
皆、「場所や状況に釣られている」んです。

頭で理屈はわかっていても、実際は磁石のように、無意識に「場所や状況という磁石」に引っ張られてしまっているんです。
だからなかなか気づけない、認識変更ができない状態が続くんです。

どこにいても、今という場所から、生まれてから一度も離れてないんですよ。
ただ思考や状況など外側を見て「そちら」に意識が奪われているだけなんです。

「実はどこにも動いてないのに、動いたと錯覚」しているだけなんです。
実際の行動と、今を一緒にしちゃっていたから混乱してしまっていたんですよ。

ずっと外側を基準にしていたら、幸せは全て外側頼みになりますから、そんな外側頼みでいたら、いつまでも幸せにはなれません。

外側に関係なく、まず今この瞬間幸せであることです。

どこにいこうと、どんな状態であっても、いつまでも、生まれてから、「今ここ」以外には、どこへも行ってないと気づくことです。

どこへも行ってないというのは、どこかへ行動してないということじゃないです。

あなたの意識の話です。
意識はいつも、生まれた時から、今というところから動いてないんです。

外側という目まぐるしいものに、幸せを翻弄されているから幸せになれないんです。

私は外側に関係なくどこへ行っても幸せです。そして外側も幸せです。外側は必ず変わるものです。
それに翻弄されない気づきを持てるといいですね。

今をとらえられないというより、いつまでも今しかないです。
自分の過去の経験や、未来の予想だけじゃなく、今現在の目の前の認識も含めて、どう判断しているかです。

今、目の前や状況などに関係なく、今自分は幸せであるかどうかです。
今です、今。

願望については、やりたいことはやれています。
幸せに生きていれば充実感はあるし、人も幸せも集まってきます。

幸せになろうとは思ってません。
今幸せですから、外側も無理なく幸せになっています。

皆さん、逆です、全て逆です。
幸せであれば幸せはポンポンやってきます。

無理矢理思い起こしたり、なりきったりすることもありません。
場所や状況に関係なく幸せを感じているんで、更に幸せになれたし豊かにもなれました。

外側の幸せは、自分の幸せに沿って変わりましたよ。

ハッキリと気がつくまで、長いか、すぐに気づけるかはその人によります。

ただ幸せは外側に依存しないことです。
そしてどこにいても、自分は生まれてから、今からはどこにも動いてないと気づくことです。

どこにいても今からは一切動いてない。
これさえ分かれば、どこにいても幸せになれます。


今というのは場所や状況が変わっても今というのはかわらないんだよ。

外側は変わってもいつでも今なんだよ。
そこを体感として理解できるかだね。

外側じゃない、いつでも変わらない今と自分の関係だよ。

あまり難しくエゴがどうしたとか考えてません。
ただどこにいても何をしていてもどこにも動いてない今にあるかどうかだけです。

思考を観察している動いてない今がそこにいつもあるだけです。

ずっと今なのです。
どこまで遠くに行っても今からは一切動いてはいません。

思考や感情も、私の世界を形成している大切な一部です。
思考や感情の無い人生など味気ないはずです。
思考や感情も、ちゃんと役割があるんです。

今は当然とらえられませんが、今をとらえようとする必要もないんです。
なぜなら、いつまでもどこまでも今しかないからです。

今の中に思考がある。
思考を超えたところに、大いなる自分はあります。

私=今でもあります。
思考というのは、道具と同じです。

今までは、思考という道具を、私であると見なしていたんです。

その思考を超えたところに在る今、「今という自分」といつも繋がっていることです。

大いなる存在の今=私です。
カタチの無い私です。

いつでも今にいたと気づくことです。
いつでも、豊かで大いなる今に、いつでもいるんです。

でも「今に居ることに何の意味があるんだろう」という人もいるでしょう。
それは、今=あなたという大いなる存在に気づいてないからです。
どこへ行っても、あなたの今=豊かさは、決して変わらないんです。
なのに、外側や思考に目移りして、今にいるのに悪い錯覚を起こしてしまっているんです。

豊かさはあなた自身です。
そこに気づけば、どこへ行ったとしても、豊かな今から世界や人生を楽しめるようになります。


自分というのは思考を超えたところに在る豊かさそのものなのに、誰かと比較しては落ち込んだり、一喜一憂したりします。それは自分の豊かさに本当に気づいてないからです。

今というのは頭にはありません。
それは感覚で言えば胸や全身ででわかると思います。
どこへ行ってもあなたの豊かさ=今。
どこまでも行っても今は豊かさなんです。

これさえ気づけたら引き寄せの法則もできるのと同じです。
いつでも今。
そしてどこへ行っても今の豊かさは変わらないんだ。
歩く歩道はいい例えだね。
今=豊かさで源泉なんだよ。

外側に関係なく豊かなんだ。
だから引き寄せの法則もその源に反応して豊かになるのは当然なんだ。






気付くためにはやはり、「今」にあることです。「今」にある習慣を身につけて、湧き上がってくる思考で、どれだけフラットな景色が汚染されていたのかを知るのです。

それは思考というものが如何に自分の世界を創出してきたのかを知る行為でもあります。少し試行錯誤をして、コツを掴めればわかります。まんま思考=世界です。毎日、10分程度でもかまいません。静かな時に「今」にある習慣をつけてください。ただ少しの間、自分をこの世界から抹消して、見える景色をボーっと眺めるだけで十分です。






基本的には、気づくだけ、後は何もしない。ただそこにいるだけ。
何もしないことに不安やいろんな心の動きが出てきても、それに気づくだけ。
「これはどう対処したらいいだろう」と思ったなら、それに同化せず気づくだけ。

それを繰り返していくと「安心」「解放感」人によっては「空白」「無」かもしれませんが、そういう感じになるかもしれません。(あくまで一例。人それぞれ。)

あとは安心、リラックス、自然、楽、そういうスペースに積極的にいること。
というかたいてい不自然に緊張してるので、それを緩める、脱力ってことです。
安心のスペースが定まってくると、気づく精度が違ってくると思います。(無駄な動きがなくなるような)

「自分をOKと思う」ことは必要ないです。上に書いたように、「自分をOKと思えない自分がいるんだな」というのを認めればいいだけで、そのこと自体に良い・悪いという判断を下す必要はないです。

自己観察なんて「思考があることに気づく→思考から離れる」ただこれだけ。


「幸せそのもの(=今。何もないもの)」に目を向けてください。それを見ると決めるだけです。それ以降の、不安を訴えてくる思考にいちいちかまう必要はありません。

不安とかざわざわもやもやして思考に巻き込まれてしまうときは、「今にある」ということを意識してみてはどうかと思います。

今に意識を向けるというのは、たとえば目を瞑って(胸に手を当てて)、3~4回呼吸に集中してみてください。
軽い思考停止状態になるかと思います。

そうしたら「呼吸している肉体」が自分なのか、「その肉体を見てる(感じてる、気づいてる)意識のようなもの」が自分なのか、よく分からないような感覚になるんじゃないかと思います。
そのよく分からない感覚の中で「意識というものがある」というのは感じ取れるんじゃないかと思います。

普通の、いつもそこにあった自分の意識です。
その意識に集中してるとき、架空の過去とか未来がなく「今」しかありません。

ということは、「○○がない」という過去の記憶データもないし、「だから○○が欲しい」という希望とか執着もありません。
「そこ」がすべての始まり、現実の起点ということになります。

エゴからすると、ただなんだかよく分からない虚無なので、落ち着かないのですぐ思考に戻りたくなります。
その状態を続けていると、ふと周りの音が気になったり、皮膚感覚とかに気をとられたりして、いつの間にか思考が出てきたりもするんですが、その思考に引っ張られないように。

といっても強く意思を持つとかじゃなく、リラックスしつつ意識としての自分を感じ続ける、という感じでいると、何もない、空っぽの中に、別の領域の感覚である心地よさとか優しい気持ち、穏やかな感覚を感じやすくなってきます。

↑は、慣れるまでは思考が出てきて難しい、と感じる人もいるかもしれないんですけど、最初のうちは時間をとって集中するとかよりも、10秒チャージとかって感じで気軽にやるといいかと思います。日常の中で、ふとしたときにそこに意識を向けてみる、って感じです。

で、「それがなんになるの?」みたいな気持ちにもなるかもしれないんですが、そこの意識を感じてるときというのは、今ここにいる=気づいてる意識そのものになってる状態。
ここで気づいていれば、「気づいてるだけでいい」と言える状態です。

自己観察で「エゴに気づくだけでいい」というのは、この「意識に気づいてる状態」でいるとき、本来の自分でいるので、エゴなんて関係なくなってしまうということなんですね。

だから「それがなんになるの?」というエゴの主張が気になるならその意識でいられていないってことになるし、「それがなんになるの?」というエゴに気づきながらも、その意識であり続けていれば、そのとき本来の自分として「在る」ことができているということです。

そこで本来の自分として「在る」ことができるからこそ、そこから生じる現象を選べるというか、自分がすべての可能性そのものである状態なので、現象でも調和がとれてくるというか。
全部とつながってる場所なので何もする必要がないというか。

このままの自分で良いんだと認めて、自分が今いるこの場所で今この瞬間幸せに浸る。ということを、10秒で(というか一瞬でもOK)体現する、今幸せそのものである、ということになるかと思います。なので悩みを想起してしまったときなどに気軽にやってみてはどうかなと思います。

いろんな意識やら声、感情は、「そこから出てきたもの」なので、出てきたものに巻き込まれると、たとえば「自分を責める声」と一緒になって自分を責めてしまうことになる。

「そこから出てきたもの」というのは、その時々によって変わってきますよね?変わっていくもの、通り過ぎていくものは幻です。その場所で声やら感情やらが何を言ってこようと、動じずにそこにある意識のほうが本当の自分です。そのいつも変わらずにある意識に気づくといいと思いますよ。

「本当の自分」の意識を感じることができるようなので、そこをもっと信頼できればいいんじゃないかな。それにはやっぱりある程度、意識的に繰り返すことがいいような気がします。

そこから「不足を感じる思考」も起こってきてるんだ、と理解があるといいかと思います。

起こってくる思考や感情のほうではなく、起きる手前の、その源のほうに意識の焦点を当てることが大切だと思います。

もう出てきてしまったエゴの方は放っておいて、これから出て来ようとしてるところに意識を向ける感じかな。

起きてくる思考感情のほうは幻です。
その幻をわざわざ捕まえて握り締めるのではなく、起きてくる源泉のほう、すべてを生み出す真実のほうに意識があることで、そこから生じる幻が変わってくるんですよね。


じゃあ安心するにはどうしたらいいんでしょう。
あなたが「今」に意識をあわせることです。

架空の未来を心配したり、過去だと思ってる記憶を前提に「今」を制限して見るのではなく、「今」という瞬間、「自分の思考をどこに向けるかというあなたの選択」、「起きてくる源泉のほう、すべてを生み出す真実のほうに意識を置くこと」が
あなたの人生を決定してるのに気づいてください。

「今」というのは、本当に「今」だけしかないです。そして「今」に気づけば気づくほど、いつも「今」を感じられます。
迷ったり不安だったりというのは「今」じゃなくて「過去」です。






お喋りをするよりも、静かでいようとしてください。あなたが何かを話そうと口を開けるたびに、それを認められたいのか、コントロールしたいのか、安全でいたいのかを見て、手放して下さい。

TVを見たり、ラジオを聞いたり、新聞を読んだり等をするよりも、それらの行為を逃避と見なし、それを手放して下さい。




「思考のループを断ち切る」


わからないのでしたら、わからないままにしておきなさい。わかろうとするのをやめてごらんなさい。そうすると、そこにあるのは何でしょう?

わかろうとするのを止めるというのは、鍵です。そして、そこから心を開いて、じっとしていてご覧なさい。実験です。

そうあるべきであることも、そうあるべきでないことも、そうなりたいことも、なりたくないことも、今、一瞬だけ、なにもかも全部忘れてしまってごらんなさい。

そうした時、さあ、ここに在るのは、何でしょう?単純に、観察してご覧なさい。ここに在るのは何でしょう?
そのもっと、奥にあるのは何でしょう。そして、そのもっともっと奥にあるのは何でしょう?そうやって、あなたの知性的な視覚が、まるで、顕微鏡を使って見ているかのように、どんどん細部へとフォーカスしていってご覧なさい。ただ単純に見てご覧なさい。

もしあなたのストーリー、そうあるべきだったとか、そうであるべきではなかったというようなストーリーが過去からやってきたら、単にそれを脇に置いておけばいいのです。






自分自身だと思っていた、絵の具で描かれた色彩を消し去ってしまえば、そこは何も描かれていない、まっさらな状態になります。これが空であり、無であり、「私は在る」です。

自分が無、ゼロだと悟ると、そこに何が描かれようが自由でいられます。不安や苦しみが描かれていても、あなた自身はその描かれた絵ではなく背景そのものですから、対象物から離れて「在る」意識(背景)であれば、そこは「すべてがある」場所ですから、そこに調和して「在る」ことで、おのずと調和した現象が生じます。

描かれている対象物は毎瞬変わっていきます。楽しいときもあれば不愉快なときもある。そのすべてを受け入れる場所に在るからこそ、その対象物を変えられる力があるのです。

その「私は在る」という存在感覚を深く感じ、実感を伴う理解として腑に落とし、これが本当の自分だという根本的な気づきがいわゆる「悟り」です。

あなたが今この瞬間に「在る」に留まるなら、時空を越えてその根源の「在る」にいることになります。

「在る」という自覚、存在感覚。
その存在に気づいている、覚醒している状態。自分に気づき続ける。それが「在る」ということです。

起きている現象を「問題だ」としているのはエゴです。不安や苦しみをつかんでいるエゴから解放されて自由になれば、問題は起きなくなってきます。
エゴを超えて、現象が起こる源である本来の自分(「在る」)に焦点を当て続けることで確かな真実である喜びや愛、調和が実現されてきます。

開放されるには「在る」にあることです。
在るという気づきだけが時間を越えて実在するものだからです。

エゴが繰り返し起きるのは苦しいかもしれませんが、そこに気づき続けることで「在る」がより確かなものになっていきます。体感を重ねながら、実感として理解することが大切です。

「在る」ことでだんだんクリアになってくれば、今まで自分だと思ってきたもの、苦しいと思っていたものはエゴの観念だったということがわかってきます。
そして「ある」に強力にフォーカスしてると、現象なんてものは結構あいまいというか、不確かなものとして、「なるほど幻想とはこういうことか」と感じるようなことも起きやすくなります。

エゴの側から「それがあるなー」と感じるんではなくて、その不動の意識そのもので在ってください。
そこがすべての創造の源です。

時空を超えた根源、すべてを生み出す源泉で「在る」ことで、そこから起こる現象がうまくいきます。
あと行動についてですが、ただそこに在れば必要なことが起きてくるので、抵抗しなければいいだけです。行動を含めてすべてが「自然に起きて」きます。






時間は存在しない
過去があったことの立証もできない
今があるだけ

時間は人間がわかりやすく定義したもの
本来はただの物質の流れ

たしかに物の動きがあるだけなのかもしれない
当たり前だが、概念化する前には時間なんて存在しない
ただ昼と夜が代わり代わりに来て、季節が移り替わり、動物や植物が死んだり生まれたりするだけだ

タイムマシンで過去や未来に行けると考えるのは馬鹿だ
何故なら過去や未来は人間の脳内にしかないから行きようがない

時間っていうのは人間の脳で理解しやすいように区切っただけなんだよね
実際にはそういうものはないんだからな
あるのはたった今という永遠の時間だけ

時間を知覚できるかどうかと言う話であれば、人間は直接的には時間を知覚できない
時計の針が記憶の中にあるのとは違う位置にあるのを見て間接的に時間が経過していると推測しているに過ぎない

つまり空想と事象との混同からくる錯覚ということだ

人間以外から見た場合人間は基地外だとしか見えないだろう
何故なら空想上のものを実在するのだと頑なに思い込むからだ

過去は記憶と記録
未来は予測
今しか存在しない

もし記憶を保持できないとしたら、時間の経過を推測することもできない




私に意識を向ける - 私を知る


自覚とは、自分(私)に意識を向け、自分自身を知っていくことです。

殆どの方は、本当の意味で自分を意識して見つめたことはないのだろうと思います。

自分を意識していると仰る方の殆どは、自分を観ている他人の目を通して自分を観ているだけなのです。つまり、その方の意識は自分ではなく、自分以外の外側に向けられているのです。私たちは他人の目を意識したり、外側から取り込んだ情報のことばかりを気にして生きたのです。

でもここでは、そのような外側のことは脇に置いて、あなた自身に意識を向けて頂きたいのです。

あなたが引き受けている世間的・社会的な役割も、あなたがいま置かれている境遇のこともひとまず脇に置いて、あなたという存在そのもの、そしてあなたの内面で起こっていることに意識を集中して頂きたいのです。

手の平を胸の真ん中に当てて、「わたし」に意識を集中してみてください。

そうやってあなたがあなた自身に意識を向けるだけで、それまで外側に向かっていたエネルギーがあなた自身に流れ込むようになります。

それにより、自分がしっかりして安定感が増すはずです。



* 



カスタネダの、有名になった言葉のひとつに、「世界を止める」という言葉があります。

私たちの「世界」とは、私たちの内的なおしゃべり、内的な対話によって作り出されている、という事柄に由来する言い回しです。

私たちは、いつもいつも、「世界とは、こういうものだ」「世界とは、かくかくしかじかのものだ」と、自分自身に向かって言い聞かせることで、この「世界」を維持していると、カスタネダは指摘するわけです。

そして、その内的対話を止め、世界を止める、ということが、真のリアリティへの道である、というわけなのです。 






「今」を感じる事が出来ないものなどいない。考え事をやめればいいだけだ。
そして考える事で、「現状」という記憶を何度も呼び起こす事で、何度もその絶望感を呼び起こしているのだから、それを止めればいいという事になる。

「現状」とはあくまで、「そういう記憶があるというだけ」だ。
わざわざ記憶に基づいた「あなた」として振る舞う必要はない。自由に振る舞えばいい。

はっきり言うと、あなたが今「あなた」だと思っている自我はただの演技だ。
その役どころはいくらでも変わるのだが、あなたがそれをいつまでたっても演じようとする。
多くの人が「苦しい、もうだめだ」とか言いながらその役どころを手放そうとしないのは愛着があるからだ。

では、俺がオススメする方向性は?
「あなた」という演技を少しずつ休む、だ。その方向性が瞑想であり、自己観察だ。
あなたがその演技から徐々に離れていくならば、別の領域から新たな役どころが提供されるようになる。
そして、その役どころはあなたにとって好ましいものだ。
お金だけでなく、人間関係、恋愛関係などあなたが今不都合だと思っているものが、「あなたが演技から離れるに従って」解消されていく。
あなたがその演技を続ける限り、別の領域があなたを助けたくても新たな役どころを与える事ができない。
だから、その舞台から降りるのだ。抵抗をやめるのだ。






今あなたの意志で苦しくない自分になれます。
そんなバカなと思うかもしれませんがやってみてください。簡単です。

またすぐ考え出して苦しくなるかもしれませんがその都度あなたの意志で苦しくない自分になってください。

すると気づくはずです。
いつでも苦しくない自分になれるのに、わざわざ自分で苦しみを選んでいたんだ、自分でやっていたんだと。

最初が一番しんどいですが、その繰り返しです。
自分のクセに気づいて直していく。そんな感覚でやってみてください。

この「苦しくない自分になる」という在り方が別の領域といわれるものです。

そこは「幸せ」とか「楽」とよく表現されてますが、あまりそこにこだわらなくてもいいです。

「ふつうな感じ」「特になんでもない感じ」くらいがいいです。


 



思考と思考の隙間に気づけばそれで別の領域内なんです。無思考状態です。それが観察者の視点。

制御しようとする思考も見てみて下さい。
思考ひとつひとつ漏らさず気づいて見てみて下さい。

静寂を感じられてるようでしたら正解です。
そのまま「これでいいのか?」という思考にも気づき続けてみて下さい。






静かにしていること。静けさのなかで、ただ自分とともにいること。それをいつも心がけなさい。毎日、そうしなさい。できれば、毎時間、少しでもそうしなさい。ただ、止めること。すべての行為を止めることだ。すべての考えを止めることだ。しばらくのあいだ、ただ「存在」しなさい。ほんの一瞬でもいい。そうすればすべてが変わる。






抵抗を取り除くもっともてっとり早い方法はリラックスすることなのである。
そのコツさえ習得できれば、あらゆることに応用できる。

鍵はただリラックスして自分を解放し、目の前にあるものだけに対処することだ。
ほかのことを心配する必要はない。


結果を得たいのであれば、心を空っぽにすることです。今のあなたにとってもう役に立たなくなった考え方を手放すことです。


静寂は通勤ラッシュの駅のホームでも感じることができます。騒音の中でもあらゆるものが静寂と共に存在していて、人間だけがそれを忘れているのです。それを感じるには単に「静かになる」これだけです。なぜなら、静寂を壊しているのは騒音ではなく、自分の思考だからです。自分の思考に気づき、ふと静寂に意識を向けるだけでいいはずです。






いいかね、よく聴くがいい。
どのような方法も、必要ない。
必要ない、ということが方法である。
ただ、沈黙して〈在る〉こと、それが方法である。
〈在る〉という思考や想念や観念を超えたところに〈在る〉こと、それが方法である。






思考しないでください。

静かになれる時、全ての思考や感情をストップして、 ただその瞬間を感じ続けてみてください。
何も起きていません。

現状と見えるものは、全てまやかしです。
そこに真実はありません。だまされないでください。

全ての思考を手放して「今、この瞬間」だけに意識を集中してみてください。現状からの強迫観念を全て無視して、気の済むまでそうしてみてください。必ず、何かに気づかれるはずです。 

何かを想像したりすることではありません。
今、この瞬間を感じるという、単純な経験です。

そこで何かしようとか思う必要はありません。むしろ何もせず、何も起きてないということを感じ続けてみてください。たびたび行っていると、普通に暮らしていても、 その感覚があなたの現実に頻繁に進入してくるようになります。

何か思考が働き出し、過去や未来に行こうとしたら、「今、この瞬間!」と思って、思考を引き戻してみてください。
何も起きていません。心配する必要は、何にもありません。


この「何も起きていない」という安心感。これはまさしく、エゴから自由になった、本当の自分の状態を確認する行為です。本来なら思考を働かせて心配していたところ、思考を止めて「そうではなかった」事に気づくと安心します。
そしてこの「今この瞬間」の安心感こそが、次の瞬間の安心感を創造するのです。

今この瞬間、安心して満足しているということは、まさに 「安心して満足した状態」を引き寄せる波動の状態であるということです。何もなくても良いのです。

することは「今この瞬間」に焦点を合わせること。
そうすれば、何も起きていない事が分かり、安心感が訪れます。それを続けていれば、安心し、満足するような現実が自ずと現れてくる、ということです。

瞑想などしなくても、いつ、どこででも出来ます。
思考するのを止め、今この瞬間に焦点を合わせてみてください。必要なのは「余計な思考を手放すこと」だけです。

あなたを怖がらせるどんなことも「まやかし」です。実際には存在していません。

これだけを根拠に、本当は何一つ起きていないあなたの中心、静寂で平穏な中心点に留まってください。


 



あなたの世界は「あなたの思った通り」の世界として立ち現れてきます。世界はあなたの「思っている通り」に現れます。あなたの思っていることがあなたの世界です。知っている通り、信じている通り、想像している通り、ということです。そこで自分が何を思っているのかに気付いている事が大切です。まず自分が何を思っているのかに注目してみてください。

「思い通りにしよう」と考えている時は、「今は思い通りではない」と思っています。ですからその思い通りになるわけです。具合が悪いから治療しようと考えます。ですから具合が悪いという思いが、具合の悪い明日をまた創ります。すなわちあなたが遂げたいと欲している思いは遂げられません。

まずは、「思っている通りになっている」という事に意識を向けてください。
立ち止まって、ゆっくりと時間をかけて、ただその事に意識を向け続けてみてください。何かを期待せずに「思っている通りになっている」とはどういうことなのか・・「自分は一体どんなことを思っているのだろうか」と・・。

「自分の好きなことばかりやっていたら生きていけなくなる」と思っているかもしれません。「自分は意気地がない」と思っているかもしれません。「彼女と仲良くしたい」「人に迷惑をかけたくない」と思っているかもしれません。そんな一つ一つを紙に書き出してみてください。そしてそんな一つ一つが「もうこんな思いは必要ない」と思えた時、あなたの現実の一つ一つが変わり始めます。仕事を辞めても生きていけると思えないだろうか・・・。「そうだ、辞めたって生きていけるじゃないか」と思えたとき、そこから現実は変わり始めます。

例えば今、会社が赤字で困っているとしたら、その事はいったん横へ置いておきます。赤字を何とかしようという考えからいったん離れてみるわけです。その赤字はあなたの思いによって創られました。あなたはその前からもっと良い会社にしようという思いを持っていませんでしたか?自分の会社をあまり良い会社であるとは思っていなかったはずです。すなわちあなたは、自分の会社が良い会社ではないという思いによって赤字化させているわけです。

自分の初めの思いを変えない限り何の問題も解決しません。そんな役に立たない思いこみをこそ変えてみる時です。 

この世界には自分一人しかいないという前提に立って意識を向けてください。「私はどんな自分でありたいのか」、過去のどんな束縛からも離れて、ただその事に意識を向ける時間を割いてあげてください。
あなたの望む自分とはどんな自分なのでしょうか。じっくりと、輝かしい自分に意識を向けてみてください。






意識を自分の内面深く降ろしていきます。自分の意識を無限遠点の自分の中心にまで持っていってください。

意志の力を使ってください。物質に向けている意識を絶えず自分の内面に向かわせてください。深く、もっと深く、意識を中心へ中心へと持っていきます。その事に自分の思考を使ってください。考えるのではなく意識の方向付けに思考を使ってください。内なる目で、内なる世界が見え始めるまで。

あなたは自分を見るという行為を通して、自然に「観察する者」であるあなたの本体と合流していきます。どうぞ自分を見続けようと決めてください。自我のとる一挙手一投足を観察してください。自我の発する想念を見張ってください。自我に生起している細やかな感情の動きを見張ってください。

自我は絶えず何かを考え、頭を働かせています。四六時中発する自我の想念を見張り、瞬間も逃さず気付き続けていると、あなたの意識は「今この瞬間」という宇宙の中心とぴったりと重なって存在し続けることになります。

観察するとは「今にい続ける」ということです。たえず観察者の位置にいるあなたは、判断のないあなたとなります。あなたの内なる神である真の観察精神には、良いとか悪いという事を判断する為の基準である価値観がないからです。

怒り狂っているあなたの内にいて、穏やかさそのものの自分を感じ始めます。不安にさいなまれている自分の内にいて、平穏そのものの自分を発見します。恐怖におののいている自分の内にいて、静けさそのものの我が現れてくる事でしょう。

わき上がってくる自分の想念を見張ってください。片時も忘れずに。どうぞその事に努力を払ってみてください。何かを手に入れようと努力する代わりに、何かを克服しようと努力する代わりに・・。
何かが出来るようになる努力をしているのなら、その代わりに想念観察に意識を向け続けてください。この努力は必ず報われます。とても不思議な感覚を持って。「どうしてなのだろう、最近のこの幸せ感は」「どうしてなのだろう、前はあんなに気になっていた事が今回は全然気にならない」と、こんな感想をつぶやく日がきっとやってきます。

想念観察を続けていると、やがて自我とははっきりと分離したもうひとりの自分を感じてきます。自我には欲求があります。その欲求こそあなたを動かしているエネルギーです。あなたを行動させている源です。
あなたのすることは意識を向けていく方向を選ぶことだけです。

結果を求める人から、原因を探る人へ。
行動する人から、見ている人へ。
演じる者から、鑑賞する者へ。
何かを追い求めたり、成就を指向する者から、観察する者へ。
対処する人から、思っている事を変える人へ。
求道者から、存在する者へ。






Q.どうしたら思考や感情に巻き込まれずに自己観察出来るでしょうか。

A.ちょっと不思議な話をすると、思考に巻き込まれていたあなたは幻想であり思考です。

「思考や感情に巻き込まれたよー」という記憶自体が思考ではありませんか?
その後悔すべき過去自体、実在しなかったのです。

幻想であったと気づいたならば、その記憶は流してしまいましょう。
もうそれ以上することはありません。
そんな苦しかった現実など存在せず、今思考に気づいているあなたがリアルです。

あとは常に記憶が瞬間瞬間に起こると思いますが、それを観るだけ。
そうすると常に今しかなく、瞬間瞬間に生まれ変わっている感じがします。

あなたの意識をよく観察してみて下さい。

意識は一瞬一瞬、せわしなく場面が切り替わっているはずです。どんどん切り替わっていて、気づくとひとつ前の場面は存在していたのかはもう既に証明できない。

「絶対存在していたよ」という記憶さえも今さっき創られたもの。たとえ存在していたとしてもどんどん破壊され、どんどん新しい場面が創造されています。

場面と場面には繋がりはないのです。「繋がっていたよ」というのもしつこいようですが思考であり記憶という、今創られたものです。もう本当にその場面があったかどうかも今は不明です。

このように、現実とは常に刷新されており、自己とは実は瞬間瞬間の場面でした。この自己を観察するのです。

刷新されていることがわかったらもう過去なんかに囚われず、過去とは断絶された常に新たな自分のつもりでいればいいということです。

願望に対して、「でも」「なぜなら」「そうはいっても…」とあれこれと条件を付けてしまいますが、その条件(過去)はもうここにはないのです。ここにはないというか、元々あったかどうかもわからない。

過去は過去という「今起きた幻想」としてただ観るだけで採用せず、今純粋に起こるやりたいことやなりたいものに向かって進めば良いと思います。






あなたが何もせずに見守るだけの観照者になると、思考は消えていく。これが思考の最も不思議なところだ。まるで光が闇を消し去るように、見ることが思考を消し去る。すべての考え、すべてのガラクタが追い散らされる。だから瞑想というのは、ただ見守ること、気づくことだ。

それは覆い隠されていたものを露わにする。それは何かをつくりだすのではない。何もでっち上げずに、単にそこにあるものを明らかにする。

本当に問うべきことは「自分とは何か?」ということだ。そして、それを知る唯一の道は、沈黙して、注意深く、気づきを保つことだ。自分の思考を、見守りそして消し去るのだ。