「伊良コーラ」面白いが大変、けれど・・・ | あたま出版ブログ 禿頭席(とくとうせき)

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20代会社員が1人開発した「伊良コーラ」の正体 新商品の「瓶入りコーラ」は2万本が予約済み


普段、何気なく歩いている道や通り。でも、行き交う人たち、たたずむ人たちに意識して目を向けると、あの人は何者だろう?何をしているんだろう?と気になることがないだろうか。これは、そういう「路上の人」に話を聞こうという企画だ

 

日常のなかでほかの人とは異なる存在感を放つ彼ら、彼女らから、自分が知らない世界、社会がのぞけるかもしれない。イレギュラーな出会いだからこそ、普段は耳にしないような言葉を聞けるかもしれない。この企画の第2弾は、伊良(いよし)コーラのコーラ小林さんだ。

行列のできるクラフトコーラ店

 学生であふれ、喧騒に満ちた高田馬場から西武新宿線の各駅停車に乗ると、たった1駅でまるで違う雰囲気の町に出る。東京都新宿区下落合。小さな駅舎に、歴史を感じさせるレトロな飲食店。改札を出てすぐのところに、せせらぎの里公苑という広々とした公園もある。穏やかな空気が流れ、生活の匂いがする町だ。

 

 公園脇の道を進むと、神田川が見えてくる。橋を渡り、桜が並ぶ川沿いをぶらぶら歩いていくと、間もなく小さなお店が目に入る。6月某日の金曜、13時の開店に合わせて少し早めに訪ねると、会社員風の3人が並んでいた。その後も続々と並ぶ人が増えていく。

 そのお店とは、伊良コーラ総本店下落合。「世界初のクラフトコーラメーカー」をうたう伊良コーラの1号店で、今年2月28日にオープンしたばかり。周囲は静かな住宅街で、ほかに目立つお店もない。平日の昼間に、コーラを求めて行列ができているのだ。

 

 13時に開店してからも、切れ目なくお客さんがやってくる。しかも若い男女、スーツ姿のビジネスパーソン、明らかに近所に住んでいるおばあさんまで客層が多彩だ。

 店をのぞくと、伊良コーラのオリジナルTシャツを着たスタッフたちと一緒に、創業者のコーラ小林こと小林隆英さんが忙しそうに立ち働いていた。「2025年までに、コカ、ペプシ、イヨシといわれる3大ブランドの1つになる」という壮大な野望を持つ男である。

 

 小林さんを見て、「おお、この人だ」と思い出が蘇る。2018年10月21日、渋谷の国連大学前で毎週末開催されている青山ファーマーズマーケットに家族で行ったとき、深緑色のキッチンカーで出展していた小林さんを見かけたのだ。

 「クラフトコーラ」という聞き慣れない言葉と、カワセミが描かれたおしゃれな看板に興味をひかれ、妻の分と合わせて2つ注文した。小林さんが、手際よくビニールパウチにシロップを入れ、炭酸水を注ぎ、ストローをさす。2つで1000円。東南アジアでよく見るスタイルにワクワクしながら、どんな味だろうと一口飲んで、ハッとした。

 コカ・コーラやペプシコーラとは異なる、スパイシーで爽やかな風味。コーラといって思い浮かぶ独特の甘み(決して嫌いじゃない。とくに映画館のポップコーンとは名コンビだ)は一切なく、口の中にシュワッと拡がる清涼感。普段、コーラを飲まない妻も「これはおいしいねえ」と言いながら、あっという間に飲み干した。

 この日、僕はフェイスブックに写真をアップし、「国連大学前のマーケットで、初めてクラフトコーラを飲んだ。伊良コーラ、非常においしかった。今度、取材しようかな」と投稿している。それから1年半以上経って、取材が実現した。

風邪薬を知らなかった少年

 小林さんは1989年、下落合で生まれた。今お店がある場所では、小林さんの祖父で漢方の調合をする職人だった伊東良太郎さんが、「伊良葯工」(いよしやっこう)という工房を開いていた。

 小林家では体調を崩すと「漢方を飲む」のが当たり前の習慣で、小林少年も風邪をひくといつも、金色のゴマ粒ほどの生薬を与えられた。それが数粒で5000円もする高価なものだと知ったのは、もう少し大きくなってから。「何かを煎じて飲むのが普通だと思っていたので、子どもの頃はいわゆる風邪薬の存在を知らなかったんです」と笑う。

 小林少年にとって、良太郎さんは「イタリアのシチリアとかにいるような、マフィアの親分みたいな雰囲気(笑)」だったという。しかし孫にとっては優しいおじいちゃんで、幼稚園の頃から工房で遊んだり、簡単な手伝いをしていた。

 

 ところが、思春期に入ると漢方の匂いが服についたり、友人たちの目を気にして、工房から距離を置くようになった。そのまま高校卒業を迎え、大学は北海道大学の農学部に進学した。

 「中学、高校時代は自分らしい生き方が全然できていなくて。でも大学に関しては何学部がかっこいいとかありませんよね。それで、自分のやりたいことをやろうと思ったんです。祖父の仕事も漢方という自然由来のものを扱っていましたし、下落合は緑豊かで、子どもの頃から自然とか生き物とかすごく好きだったので、農学部を選びました」

 大学に入るとお酒を飲むようになるが、あまりお酒に強くない小林さんは、コーラを注文することが多かった。もともと偏頭痛持ちで、「偏頭痛にはカフェインが効く」と言われてコーラを飲んだら痛みが和らいだこともあり、コーラを飲む頻度が増え、そのうち好きになった。

 小林さんは子どもの頃から釣りが好きで、夏休みなど大学が長期休暇に入ると釣り竿を持って海外を旅した。世界を巡り、ハワイのビーチやブラジルのアマゾンでも釣りをしたという。その旅路、手元にはいつもコーラがあった。

 

 ヨーロッパでは、日本で見たこともないコーラが売られていた。カフェイン量世界一をうたうドイツのアフリ・コーラ、ハンブルク発祥のフリッツ・コーラ、世界一おいしいといわれるイギリスのキュリオスティーコーラ。南米のペルーには、コカ・コーラよりも売れているといわれるインカ・コーラもある。

 世界中でコーラを飲み歩きながら、個性豊かな味を楽しんだ。その経験が今につながっているのだが、当時から「自分でコーラを作ろう」と考えていたわけではない。

偶然目にしたコーラのレシピ

 小林さんは、大学を休学してフィリピンで活動している複数のNGOでインターンシップをしていた時期がある。そのときは、自然に関わるNGOや国際公務員になろうと考えていた。しかし、現地でNGOの現状を目の当たりにして、方向転換する。

 「一般企業なら適切なサービスを提供しないと潰れますが、寄付や行政からの拠出金を収入源にしているNGOにはそういう作用があまり働きません。海外のNGOのなかには、惰性で作業をしていると見えてしまうようなところもありました。それなら資本主義に乗っかっているシステムのほうが健全な気がして、ビジネスに興味を持ちました」

 この体験から、大学院卒業後の2015年、大手広告代理店のアサツー ディ・ケイ(ADK)に就職した。資本主義ど真ん中の業種で、「アイデアを考えて人をびっくりさせることが昔から好き」という理由で選んだ仕事だ。

 広告代理店では、新入社員の頃からさまざまな仕事に携わった。カザフスタンに長期滞在したり、海外のイベントを招致したり、シャンプーのPRをしたりと目まぐるしい日々のなかで、小林さんの息抜きになっていたのが、コーラ作りだった。

 きっかけは、偶然だった。社会人1年目のある日、ネットサーフィンをしていたら、怪しげな英語のサイトに気になる記事があった。そこには、1886年5月8日にジョージア州アトランタで誕生したコカ・コーラのシロップのレシピが掲載されていた。

 ちなみに、コカ・コーラの歴史を少し紐解くと、開発したのは地元の薬剤師ジョン・S・ペンバートン博士で、近所の薬局に持ち込んで町の人々に試飲してもらうと好評だったため、1杯5セントで販売を始めたところ、大ヒットしたそう。

 コカ・コーラのレシピは現在も門外不出の秘伝とされ、本社の特別な施設で保管されており、レシピの内容を知っている人は世界で数人しかいないといわれている。それが流出したのか真偽は定かではないが、今から134年前に博士が開発したとされるレシピは意外なことに、それほど複雑に見えなかった。

 

 コーラ好きの小林さんは「え、これなら自分でも作れるんじゃん!」と興奮し、当時住んでいた祐天寺の家の近所のスーパーに駆け込み、材料を買いそろえた。

 「レシピに載っていたのはナツメグ、コリアンダー、バニラ、シナモン、ネロリ、オレンジピール、ライムピール、レモンピール、コーラの実とコカの葉っぱでした。これらのエッセンシャルオイルを混ぜ合わせるレシピだったんですが、とりあえず載っていたスパイスを一通り買ってきて、一緒に煮込んでみました」

 

 グツグツと煮込んで出来上がった液体を口に含んでみると、確かにコーラのような味がした。しかし、それは決して感動するようなものではなかった。それが逆に、好奇心を刺激した。

 「もっとおいしいコーラを作りたい!」と考えた小林さんは、その日から時間を見つけては自宅でコーラを作るようになる。毎日のようにキッチンに立つこともあれば、週に1回、2回になることもあったが、とにかくコーラを作り続けた。それは趣味的な楽しみであり、リフレッシュだった。

 しかし、ネットに載っていたエッセンシャルオイルで作るコーラと、スパイスから作るコーラでは工程が異なる。スパイスから作るには火を入れる過程が入るため、自分で工夫を重ねるしかない。

 気がつけば1年が経ち、2年が経っても感激するような味にはならず、さすがに煮詰まってきた。「もうやめようかな」と諦めかけたとき、実家に戻る機会があった。2017年に祖父の良太郎さんが亡くなり、「伊良葯工」の工房を整理することになったのだ。

 片付けをしていると、良太郎さんが使っていた古い道具や書きためたレシピなどがたくさん出てきた。自然と、家族で良太郎さんの思い出話に花が咲いた。そのときに、「火を入れてるときにこんな大変なことがあったよね」「こんな風に手間をかけていたよね」という話になった。「ふーん、そんなやり方してたんだ」と耳を傾けていた小林さんは、ビビッと閃いた。

 「このやり方をコーラ作りに生かせるかもしれない!」

 当時、コーラを作っていることを家族に話していなかった小林さんの胸のうちは、静かに熱くなっていた。

「お金払っても飲みたい!」

 自宅に戻ると、すぐにコーラ作りに取りかかった。実家で聞いた良太郎さんの話をヒントに、それまでのやり方を変えた。

 「企業秘密になっちゃうので詳しくは言えないんですけど、いろいろな材料をいっぺんに煮込むと、ベタッとした感じになるんです。スパイスに火を入れる工程と煮込む順番をどう工夫するかっていうところですね」

 出来上がったのは、過去2年間作っていたものとはまったく別物のシロップ。炭酸水を入れて飲むと、風味豊かでコクのあるコーラに仕上がった。これは……と思い、翌日、会社に持参して、仲のいい同僚に声をかけた。これまで試作品を何度か飲んでもらっていた同僚は、新しいコーラを一口飲んだ瞬間、驚きの声を上げた。

 「めちゃくちゃおいしい! これ、普通にお金払っても飲みたい!」

 あ、これ売り物になるんだ──。コカ・コーラの生みの親、ジョン・S・ペンバートン博士は薬局で試飲してもらったのがきっかけでコーラ作りに乗り出したが、小林さんが大きな手応えを得たのは、オフィスだった。

 

 ここからの動きが、電撃的に速かった。同僚に試飲してもらったのが2018年6月で、そのほぼ1カ月後の7月28日、小林さんはカワセミが描かれたキッチンカーを出動させて、国連大学前の青山ファーマーズマーケットに初めて出展したのだ。キッチンカーは、大学時代に仲よくしていた人が車のカスタマイズを仕事にしていて、依頼をするとすぐに作ってくれたという。

 「車代とかシンクの購入費とか、全部含めて300万円ぐらいかかりました。そのときの貯金を全額ぶっこみましたよ(笑)。コーラの味に手応えもあったし、ワクワクしてたんでお金のことは気にならなかったです」

 当時は伊良コーラのSNSもなく、自分のSNSでもあえて告知することなく迎えた7月28日。用意した150個の伊良コーラは、数時間で完売。小林さんは、うれしさと同時に「話で聞いていたことが現実になった」というこれまでにない感慨を覚えた。

 「よく、お金は等価交換だとか、人を喜ばせたことがお金になるということは、本に書かれていたり、話で聞くじゃないですか。でも、実感したことがなかったんです。この日は、自分が完全にゼロから生み出した伊良コーラっていう商品が、お客さんに喜ばれて、その対価として500円をもらうという体験をして、すごく新鮮でしたね。会社員としてもらってきた給料とは、まったく別物でした」

 広告代理店の社員として大きなプロジェクトに携わるのは、やりがいがあった。ただ、小林さんが苦手とする具体的な準備や段取りをコツコツと無難に進める能力が要求され、「自分に向いてないな」とも感じていた。「自分のポテンシャルを最大限発揮できてるか?」と自問すると、イエスと断言できないモヤモヤを抱いていた。

 そのタイミングで、300万円の貯金をつぎ込み、自分のアイデアを形にして得たコーラ1杯分の500円は、特別なものだった。

世界初のクラフトコーラ・ベンチャー

 それから、平日は会社員、仕事がない週末は「伊良コーラのコーラ小林」としてマーケットに出展という日々が始まった。広告代理店の仕事は残業も多くハードだったが、休日に体を休めようとは思わなかった。

 「休日ってドライブ行ったり、ボウリング行ったりして遊ぶと思うんですけど、それが僕の場合は伊良コーラの出店でした。遊びとしてやっていたので、ただ楽しくて」

 マーケットでの人気はうなぎ登りで、天気がいい日には250杯売れるときもあった。週末の忙しさは、心地よかった。いつしか、会社員の小林隆英より、コーラ小林としての自分のほうがしっくりくるようになった。

 初出店からわずか5カ月後の2018年12月、小林さんは辞表を提出。最終出社日には「コーラ屋になります」と挨拶をして回った。

 

 「会社員と違って、伊良コーラの活動は自分にしかできないものだなと思って。例えばクラフトチョコレートとかクラフトビールってヨーロッパやアメリカで生まれたものなんですけど、当時、小規模な工房で手作りされたこだわりのコーラという文脈でクラフトコーラという言葉はいくら調べても出てこなかった。伊良コーラは日本発で、世界初なんですよ。自分の時間やお金、能力というリソースをこの伊良コーラに投資したほうが世界にとっていい影響を与えられるなと思ったので、辞めました」

 2019年1月29日、会社を設立。世界初のクラフトコーラ・ベンチャーが、下落合に誕生した。「2025年までに、コカ、ペプシ、イヨシといわれる3大ブランドの1つになる」という目標を掲げて。

 2019年は、「手探りでもがきながら」の1年になった。起業したとはいえ、自分1人。コーラのシロップを製造し、資材をそろえ、週末にマルシェやマーケットに出展するというルーティンだけで、手一杯になった。使用するスパイスは小林さん本人がすり潰し、焙煎して調合するため、時間がかかるのだ。

 

 しかし、それではコーラ市場を支配する2大巨人、コカ・コーラとペプシコーラに食い込むのは夢物語。そこで、パートタイムでオフィスワークや事務的な作業を手伝ってくれる人を少しずつ増やしていき、コーラを進化させるレシピ開発に注力した。

 134年前のレシピをベースに、複数のスパイスを使うチャイの配合やジンジャーエールのレシピなどを参考にして、足したり引いたりを繰り返した。

 なかでもこだわったのは、アフリカに生える「コラの木」から採れる果実、コーラナッツ。カカオやコーヒーよりもカフェインを多く含み、コーラという名称の語源といわれる。この果実を仕入れるために、昨夏、ガーナに飛んだ。

 

 小林さんによると、「味の骨格をなすものではなく、今現在はコカ・コーラやペプシコーラでも十中八九、使っていない」そうだが、それでもガーナに行ったのは、なぜ?

 「コーラの実は現地で『神様からの贈り物』と言われていて、すごく神聖なものなんです。結婚式のときに渡したり、祝いごとに使ったりされていて、本当にピースフルでポジティブな精神にあふれたものなんですよね。ガーナで実際に農園を見て回って、その文化的な意味を体験できたのは大きな収穫でした。神様からの贈り物を使うコーラという飲み物もすごくピースフルでナイスな飲み物なんじゃないかって思うようになったんです」

 小林さんは「神様からの贈り物」という価値にひかれ、現地から輸入することに決めた。「伊良コーラのコアターゲットは自分」と言い切る小林さん自身が、「神様からの贈り物」が入ったコーラを飲みたいと感じたのだ。

下落合に店を開いた理由

 コーラの実に加え、もともとのレシピになかったクローブやカルダモン、ラベンダーなど15種類以上のスパイスと柑橘類を配合することで、伊良コーラの味は深まっていった。さらに、柚子、クロモジ、ぶどう山椒、ニホンミツバチの蜂蜜など、日本各地から集めたボタニカルを使用して作られた「THE JAPAN EDITION」も開発した。その味が評判となり、都内のカフェやバー、百貨店でも取り扱われるようになった。

 しかし、小林さんは焦りを募らせていた。伊良コーラが注目されるようになり、メディアへの露出が増え始めてから、「どういう工場に委託してるの?」と聞かれる機会が増えたからだ。伊良コーラは手作りだからクラフトと名乗っているし、それをいちばん大切なこととして伝えてきたつもりなのに、まったく理解されていなかったことに危機感を抱いた。

 さらに、後発のさまざまなクラフトコーラメーカーが委託製造しているという話を聞いて、伊良コーラが大事にしていることをお客さんに丁寧に伝える必要性を感じた。そこで、店舗作りに動き始めた。

 「ガラス張りで、実際にコーラを作っているところが見えるお店を開こう」

 当初は、自身が住んでいた祐天寺に店を開こうかと考えた。祐天寺は中目黒に隣接し、ブルーボトルコーヒーがオープンするなど、最近、にぎわっているエリアだ。

 そこでふと立ち止まって、地元の下落合に目を向けた。高校を卒業してからはたまに帰省する程度で、特別な思い入れはなかったが、自分のルーツは下落合にある。祖父の良太郎さんが1954年に「伊良葯工」を開き、そこで遊び、漢方に触れてきた。その生い立ちが、今につながっている。緑が多く、神田川沿いの桜並木は年間300万人が訪れる目黒川の桜に勝るとも劣らないほど美しい。その割に、まったく注目されていない。

 コカ・コーラとペプシが使わなくなったコーラの実に目をつけたように、埋もれた価値に光を当てるのが、伊良コーラらしさ。離れたことで気づいた下落合のよさをもっと知ってもらいたい。地元に恩返ししようという思いから、下落合で店を開くことを決めた。

 

 店舗は、祖父の良太郎さんが亡くなって以来、誰にも使われていなかった工房をリノベーション。下落合の地場産業として発展した染物屋が今もいくつか残っているので、地元の染物屋とコラボして伊良コーラの暖簾を作った。店舗名にもあえて下落合と入れて、「伊良コーラ総本店下落合」。店の前の遊歩道には勝手に「コーラ小道」と名付けた。

 下落合の桜を楽しんでもらおうと、店舗は2月28日にオープンした。ところが、 桜が満開の時期が新型コロナウイルスとそれに伴う緊急事態宣言に重なってしまうというまさかの展開に。やむをえず雌伏の時を過ごし、改めて6月に入って通常営業を始めると、すぐに行列ができるようになった。

 撮影に訪れた日、1人で店に来ていた女性に話を聞くと、昨年10月に国連大学前で開かれた東京コーヒーフェスティバルで、たまたま伊良コーラを飲んでその味が忘れられず、下落合まで来たそうだ。「新しいけど懐かしい味がするんです」と言って、ストローをくわえながら、遊歩道を去って行った。

 数カ月前に下落合に引っ越してきたという若いカップルは、伊良コーラを初めて飲んで「うわっ! これは何回でも飲めるやつだ」「通っちゃうね!」とうれしそうにしていた。

 小林さんのコーラへの情熱は尽きることなく、店舗では「ミルクコーラ」も味わえる。これは、自宅用のシロップを買ったお客さんから「ホットミルクを入れて飲んでいる」という話を聞いて新たに開発したテイストで、コーラシロップと牛乳、炭酸水が入っている。コーラに牛乳?と疑問に思う人が大半だろうが、小林さんの自信作である。

新開発の瓶入りコーラに予約殺到

 会社の同僚に自作のコーラを飲んでもらったのが、2018年6月。それからわずか2年で独立、百貨店などに進出、店舗オープンと駆け抜けてきた。スタッフも10人まで増え、正社員を募集するまでに成長した。

 しかし、小林さんの勝負はこれからだ。コーラを売って稼いだお金を投じ、満を持して瓶入りの伊良コーラを開発したのである。それまではシロップに炭酸水を注ぐという人の手が必要だったが、瓶入りになれば日本全国どこへでも卸すことができる。7月末に販売開始予定の瓶入りコーラ、すでに2万本の予約が入っているというから驚きだ。

 この期待に応えることができれば、日本のカフェやバーでコーラを注文したときに、「コカ、ペプシ、イヨシ?」と聞かれる日も遠くないだろう。近い将来、海外で瓶入りコーラを生産することで、世界進出も見据える。あと5年で、2強にどこまで食い込めるのか。

 

 「僕がやってきた調合とか調和って、東洋の文化に通じるものがあると思うんです。日本の和食も『和』の文化で、世界的に評価されてますよね。さまざまなスパイスを調合したヘルシーでおいしいクラフトコーラも、日本のポテンシャルを生かして世界に挑戦できるプロダクトだと思っています」

 現在30歳。たった1人で始めたコーラ革命の第2章が、幕を開けた。

息子がまだ小学1年生くらいの頃、「レモネード屋さんをしたい」と言ったことがありました。アメリカでは子供がお金を稼ぐ手段のひとつとして自宅で作ったレモネードを自宅前の即席屋台で販売したりするようなことを聞き、「僕もお金を稼いでみたい」と思ったそうです。

結局レモネード屋さんはまだ開業していませんが、自分で仕事を見つけて開業するという考え方は良いと思います。

 

好きになったことや気になったことを突き詰め、それを商品化するのは素晴らしいことです。

個人商店から始めていずれ大きなビジネスとなり、それが日本全国に波及して、多くの人達が自分でビジネスを始めるようになれば、昔のような個人商店や個人事業主が増えるかも。「脱サラ」は簡単ではありませんが、どの街にも個人商店や事務所が軒を連ねる風景は日本人には合っているかもしれませんね。

 

わが家の息子は将来どのような道を歩むのか、どんな仕事をするのか、楽しみです。