57 おしゃべり大好き男 オールナイトニッポン
子供の頃からふざけんぼの僕はとにかく喋ることが好きだった。
いや喋るのが好きなんじゃない、喋ることでコミニケーションをとって楽しい空気になることが好きだったのだ。
笑いはいい、笑顔はいい、それだけ平和だ。
おしゃべりの僕をわかってくれたのか、ラジオをやってみないかというお話しをいただいた。
ラジオ?!深夜放送にはまった経験もなく、弁当配達の時くらいしか聴いてないかった。
そのラジオとはあの「オールナイトニッポン」だった。
これは僕でも知ってる、そしてこの番組が若者との大切なコミニケーションの場ということも知ってる。
はたして2時間のラジオができるものなか?
そんな僕に4回くらいに渡ってニッポン放送でテストを受けさせてくれた。
ハガキの読み方や受け方、フリートーク、曲紹介、コーナーのもってき方、ジングル、一本のマイクの前で喋るのは大変だった。
そのオーディションに常に一緒にいたのが、当時学生だったオサさんだ。
僕の金八先生やスクールウォーズの役者時代の話を興味深く面白がって聞いてくれていた。
オサさんは放送作家で脚本家で作詞家でラジオパーソナリティでタレントで映画監督と今では知らない人がいないくらい超有名人だ。当時みんなで「オサボー」なんて呼んでいたけど、もうとてもとても、といいいながら心の中では呼んでいる。
毎回喋りをカセットテープに録音してもらったものを家に返って聞いた。
コツが少しだけわかった気がした、それは「想像する」だ。
聞いてくれてる人を想像しながら喋ると喋れた、やはり大事なものを思い浮かべながらやらないとパワーがでないんだなって。
ラジオレッスンをやってくださったおかげで、合格することができパーソナリティーをやれることになった。
確か一回「来週からよろしくねー」みたいな感じでプレ生放送をやった記憶がある。
誰かのピンチヒッターだったのか?思い出せないんだけどそれがめちゃくちゃ楽しかったのを覚えている。
その時にいくつかのジングルを録った、細かいセリフは忘れたがジブグルの一つが……
「ヒヒーン!なんとかかんとかの暴れ馬!かーきじましんじのー、オールナイッ!(少しあけて)ニッポン!」みたいなやつだ。
これを普通にやったら(なにが普通かわからないが)ディレクターのシンさんから強烈なダメ出しがきた。
シン「だめだめー、ぜーんぜん元気ないよー、そんなんじゃ届かなーい、もっと派手に!もっと馬らしく!」。
3回くらい馬らしくヒヒーンってやったと思う、そしたらOKがでた。
心の中で「流石うまどしだ、馬をやらせたら右に出……」と一人悦に入っていた。
そしてニッポン放送、ビクター、ユイみんなでどういう番組にしたいかミーティングした。
さまざまな意見がでて、たくさんの面白いコーナーが決まっていった。
完全なギャグや少しHなトーク、ダジャレコーナーだったりとにかく色々だ。
ド頭の10分のフリートーク、この1週間にあったことを話すのだがこれが一番大変だった。
「今週はこの話で行こうか!」とリュウさんと旅をしながら考えていた。
だけどそれが採用されるかはわからない、シンさんは……
シン「ん……?おもしろくなーい、他は?」
シン「ちがーう、他は?」
シン「フフフフ、面白いじゃん、これで行こう」
ということでいつも3ネタくらい用意していた。
そして忘れられないのは「夜明け前路上ライブ」だ。
番組終了15分前にニッポン放送玄関口でギター弾き語りをする。
曲はハガキによるリクエストだ、ハガキを読んだ後にリクエスト曲を歌う。
僕が代々木公園から路上ライブを続けてたことを知り路上ライブは絶対だということになったと思う。
この夜明け前路上ライブは想いが強いのでまた別の機会に書けたらといいなって思っている。
かくして93年秋から「柿島伸次のオールナイトニッポン」がはじまった。