49 生まれて初めてのハグ ケーシー登場 | 柿島伸次オフィシャルブログ powered by Ameba

49 生まれて初めてのハグ ケーシー登場

成田空港、飛行機の中、乗り換えのダラス空港、飛行機の中、ナッシュビル空港到着、まだ歌詞、書けない。

ホテル到着、休憩……この辺りで出来たと思う、レコーディングに間に合った、良かった、スッキリした。

 

ナッシュビル空港でコーディネーターのケーシーが待っててくれた。

ケーシーは音楽が大好き過ぎて単身大阪を出てナッシュビルに来たアメリカ系関西人、僕より年は10個くらい上だと思う。

そして生まれて初めてハグした人がケーシーだ。初めてのハグがメチャクチャ自然にできたから関西系アメリカ人かも。

 

ケーシーは僕のことをしんちゃんと呼んでくれた、こう呼ばれるのは親と親戚くらいだったから懐かしい感じがした。

僕も敬意をもってケーシーさんと呼んだら……

 

ケ「ああん!(水臭いという表情で)ケーシーでええよ!ケーシーで!」

 

ということで会った当日からケーシーと呼ばせてもらった、初めて会ったけど水臭さも感じたのはケーシーが初めてだ。

 

このレコーディングの旅が気持ちが一挙に楽になったことを覚えてる。

英語も喋れない僕に何かあるたび丁寧に教えてくれた、ケーシーに一番つかった英語はThank youだ。

 

ケーシーはポロのシャツしか着ない、ポロとはメーカーの「POLO」シャツはポロシャツ、ややっこしいがPOLOのポロシャツしか着ない。車はオンボロのトヨタ、板金のいたるところが錆びてて日本じゃまず車検に通らない感じだ。

アメリカは車検がないせいかボロい車がたくさん走ってる、日本が綺麗好きすぎるんじゃないかとそのころから思ってる。

レストランでは食事の量が多過ぎてみんな仕方なく残すと……

 

ケ「ん?みんなもう食べへんの?ギブアップ?ほんならいただきまーす!」といって全部平らげる。

 

そしてアルコールは一切飲まない、酔う時は音楽に酔う。

雑学もたくさん知ってる、大統領選挙でナッシュビルが勝ち負けを決定した州だといっていた、ビクターの長ケンさんの「ねぇ、クリントンってどう思うー?」を思い出した、やっぱり深い。ちなみにナッシュビルはテネシー州南部だ、1800年代は奴隷州だった。

 

ケーシーの家に行きたいっていったら「ええよ、きたないでー」といいながらも招いてくれた。

緑の庭に囲まれた中に大きな平屋の一軒家がある、オンボロトヨタはだいたいのそこらへんにポンと止めてた、いいなぁ〜こういうの。

 

ギターが大好きでビンテージギターを集めていた、リッケンバッカー、ギブソン、レスポール、弦がいっぱいの珍しいギター、もうよだれもんだ。

 

こんな素敵な環境の中にある一軒家はさぞ高いだろうなぁとどうしても知りたくなったのだ。

 

か「ケーシー、こんなこと聞いていいかわかんないんだけど、だいたいでいいんだけど、この家いくら?」聞くんかい!

ケ「800万円」

 

うぉーまじか!だからと言って買いたい!とかじゃないど日本の土地が高すぎるんだなぁ。

日本はもうバブルははじけてたけど雰囲気バブルだった、なんかわかんないまま高いものは高いままだった、僕はバブルのしっぽと呼んでいる。

 

カーラジオからはトムペティーやCCRやドゥービー、軽快なアメリカンロックが流れていた、日本ではなかなか流れない音楽だ。

ラジオを聴いてたら派手にガラスが割れる音が聞こえてきた「ゥバリャンドガシャーン!ピキピキリン」ビリージョエルのガラスのニューヨークだった。

僕が知ってるガラスのニューヨークは「パリン」くらいだったがナッシュビルのラジオできいたらな「ゥバリャンドガシャーン!ピキピキリン」って聞こえた。

 

アメリカはラジオ局がしのぎを削ってるらしく、エキサイターというエフェクターで音楽が派手に聴こえるようにしてるそうだ。

これはロック好きになっちゃうなぁって、ギターやドラムの音がとにかくカッコいいのだ。

湿度も低くちょうどいいからベタベタと汗をかかない、肌はいつもサラサラで音楽はカラッとしてた、なんて素敵なんだろう。

 

レコーディングスタジオに入る前にこうしてたくさんコミニケーションを取ってくれた。

なにかをやる時に一番大切なのは自由な気持になることだ、明るい気持でレコーディングスタジオに入ることができた。

 

ケーシーは残念ながら10年くらい前に亡くなってしまった。

泣きながら作った歌、それが「I LOVE ケーシー」になった。