46 ビクターとユイ音楽工房
26歳の時に憧れの事務所、ユイ音楽工房にはいることができた。
担当マネージャーは電話をかけてきてくれたリュウさんに決まった、リュウさんは僕の一つ年上で音楽に詳しい。
千駄ヶ谷にあった事務所で契約書をかわし色々な説明を受けて判子を押した。
はじまるぞ。
舞い上がっていて細かいことをあんまり思い出せない。
実は契約日に知恵熱が出てた、アパートにもどって少したら下がったからあれは知恵熱だ。
ちなみに8℃、結構フラフラだったので彼女に運転してもらっていった。
デビューはすぐできるものじゃなかった、様々な準備をすることになる。
まず最初にやったのは事務所から借金した、借金っていうとなんか響きがよくないから言い方を変える、お金を借りた。
いくら借りたか忘れたけど音楽家としての生活を立て直すための借金だ(お金を借りた)。
新しい8トラックのMTR、ドラムマシン、エレキギター、ベース、そして取材とかに耐えうる洋服を買った。
ヘインズのTシャツと色の落ちたリーバイス501しか持っていなかったから。
そして美容院も原宿を紹介されてそこにいくようになった、こんな高い床屋さんいったことないとふるえた。
こんなにお金借りて大丈夫?と思うが大丈夫。
僕のローンの歴史は古い、中古のアコギヤマハL-31Aからやってるから慣れっこだった。
そしていくつかのイベントに参加した。
覚えてるだけ書いておくと、若者が集まってるカラオケボックで歌ったり、地方の居酒屋の座敷で歌ったり、イエローというライブハウスのイベントで歌たったり、そこで必ずしもオリジナルを歌うわけじゃなくカバーも歌った。
神戸の須磨にあるラジオ曲で生まれて初めてのラジオゲストも経験した。
目の前のマイクにかぶりつきで話したからメーターが赤にふれてしまった。
その時のパーソナリティーはフクさん「このマイク性能いいからそんなに近づけなくても大丈夫やでぇ」って。
ビクターの営業所、大阪、名古屋、仙台、札幌、広島、福岡、全ての営業所に顔を出しにいったと思う。
あとレコード屋さんに挨拶回り、まだCDは出てないのだけれど顔をみせにいった。
とても印象に残ってるのはビクター山中湖スタジオに全国から媒体を集めてそこでライブをやった。
歌を聴いてくれた方達が率直な感想を言ってくれて励みになった。
ライブが終わった立食パーティーみたいな場でビクターの長であるケンさんに「聴いたよ、何度でも壊れてやるさっていいよね」ー」「ねぇ、なんで最後のとこWINDING ROADって英語なのー?」とたくさん話しかけてくれた。
そしてもう一つケンさんから質問が「ねぇ、クリントンってどう思うー?」だった。
ビビった、一つ一つの質問にものすごい深い意味があるに違いない、サザンのプロデューサーから話しかけられてビビらない人はいない。
そして一番大事なレコーディング。
どんな曲をどんな形でレコーディングしてCDにするのか。
当時原宿にあったビクター本社の会議室で、ユイとビクターと僕でファーストアルバムのミーティングをした。
なんとケイさんからものすごい案が飛び出したのだ。
ケイ「ナッシュビルで録りませんか?」と笑顔でいったのを覚えてる。
か「ナッシュビルってなんですか?」とキョトン顔で聞いたのも覚えてる。
ケイ「アメリカで録りませんか?」もう一度笑顔。
か「アメリカでー!」驚愕。
かくしてファーストアルバムはナッシュビルでレコーディングすることが決まった。
パスポート!!
今まで外国に行ったこともなければ飛行機にも乗ったことがないのだ。
19歳からずーっとバイトとライブだけだったから。
アパートに帰ってくると落ち着いて不思議な気持ちになった。
いろんな想いが染み付いてるから。