前回予告したように、今回はまた古墳シリーズ「前橋総社古墳群」の紹介です。
訪れたのは2015年10月9日。
<前橋総社古墳群>
前橋市西北部に6基が現存する。県内最終末期の古墳が存在する。二子山、宝塔山、蛇穴山、王山、愛宕山、遠見山。
まずは「宝塔山古墳(ほうとうざんこふん)」から。方墳なので、復元図を見るとほとんどピラミッドである。
<宝塔山古墳>
群馬県最大級の方墳であり、現状で南北辺54m、東西辺49m、高さ12mを測る。現状の地形でみると、墳丘南側には幅約24mの一段低い畑地面があり、周堀の痕跡とみられる。これを含めると、その墓域は一辺100m前後の規模となる。埴輪は検出されていない。
主体部は古墳築造時の地表より約3m上の基壇上に造られ、高度の技術を駆使した切石切組積みの両袖型横穴式石室である。羨道・前室・玄室の3室をもつ複室で、全長は12.04m。玄室は奥壁幅2.9m、長さ3.3m、高さ2.1mである。また石室入り口前には幅8.85m、奥行き3.76mの長方形プランの前庭部がある。石室は輝石安山岩、角閃石安山岩の切石で構築され、玄室奥壁・天井石はともに一石の巨石を加工の上、使用している。玄室入り口には精巧な玄門を設置し、石室壁面には全体に漆喰塗布の痕跡がある。玄室中央に石室長軸線に直交して家形石棺が据えられている。この石棺の脚部は格狭間形に加工されており、仏教文化の影響を示している。(wikiより)
他の古墳群のように特にこれといって公園のように整備されているわけではなくて、駐車場も無い。
すぐ近くに「天台宗光厳寺」があるので、その駐車場に車を置かせてもらった。
光厳寺には立派な山門がある。ここは総社領主秋元氏の菩提寺であるが、
古墳上にも歴代墓地があった。
頂部から光厳寺を見下ろす。
登り口とは反対側から見た宝塔山古墳。
そして、お待ちかね(?)の石室。
奥に「家形石棺」が置かれている。
参道。実に精緻な石組みである。
続いては「蛇穴山古墳(じゃけつざんこふん)」に向かった。宝塔山古墳の近くにある。
ちなみに、先ほどから説明書きの石に著者が反射で映り込んでしまって、お目汚し申し訳ない。
<蛇穴山古墳>
墳丘は2段築成と考えられ、一辺約39mの規模をもつ。基壇葺石根石に接して幅1m前後のテラス状平坦面があり、その外側に幅約12mの周堀の跡がある。埴輪は検出されていない。
主体部は両袖型横穴式石室であるが羨道部を欠く。石室前面には羨道部痕跡とも考えられる幅1.57m、長さ1.07mの一区画を配し、その前に奥幅2.12m、前幅6.30m、奥行き3.09mの台形プランの前庭部がある。両者共に両側壁には切石を使用している。玄室は全長3.0m、幅2.57mで両側壁、奥壁、天井、入り口部の左右袖壁を兼ねた玄門、その上の冠石はいずれも一石ずつで、都合7枚の輝石安山岩の巨石を巧みに加工・組み合わせて構築している。石材の表面は軽く水磨きを行ない、玄門の石には門の柱および冠木に相当する部分を刳り出すなど、入念な工作を行なっている。また宝塔山古墳と同様に漆喰塗布の痕跡がある。
7世紀末から8世紀初の築造と推定される、当地区における最末期の古墳である。周囲には総社二子山古墳、宝塔山古墳、山王廃寺跡、そして上野国分寺跡・同尼寺跡があり、古代上野国の文化的・行政的中枢と考えられる地域でもある。(wikiより)
こちらの石室の石組みも素晴らしい。当ブログの最初の記事で書いた著者のバイブル(?)ムー別冊「日本ミステリー・ゾーンガイド」にも「まるでインカ遺跡のような精緻な石組み」として紹介されていた。
頂部は特に何も無く、ただお墓のみがあった。
ちなみに、この近くにあった「御霊神社」にも立ち寄ってみた。
案内板によると、この場所もまた小古墳であり、社殿は元は蛇穴山古墳上にあったものを移築したとのことである。
続いて向かったのは「総社二子山古墳」。
このように書くと順当に回っているように見えるが、先述のように公園とかではないので、順路や位置関係が全く分からず、市の教育庁などの公式HPすらない。仕方ないので、同好の古墳好きな方の個人ブログを参考に彷徨いながら回ったのが実態である。
こちらは前方後円墳である。総社古墳群の中では最も大きい。
<総社二子山古墳>
全長89.8m
後円部径44.2m、高さ7.5m
前方部幅60m、高さ8.0m
墳丘の中心軸は東西方向で、前方部を西に向ける。周囲の地形から周堀の存在が予想されるが、詳細は不明である。
前方部と後円部の両方に両袖型横穴式石室があるが、両者は工法を異にしている。
後円部石室は全長9.4m、玄室長6.88m、幅3.4mと群馬県内有数の規模をもち、榛名山二ッ岳噴出の角閃石安山岩の切石を互目積みにしている。現状では天井石が崩落している。羨道は現状長さ1.9メートルだが、本来の長さは2.5メートルと推定される。
前方部石室は全長8.76m、玄室長4.27m、幅2.22mとやや規模も小さく自然石をもって構築し、後円部石室とは趣を異にしている。(wikiより)
そこそこ整備されている。
こちらは前方部石室。先の二つの古墳と違って、自然石を積み上げた作りである。
こちらは後円部石室。這いつくばって潜り込まないと内部撮影はできないのでやめておいた。
ちなみに、石室はともに江戸時代に開口し、遺物が藩に届出られているとのこと。
続けて「総社愛宕山古墳」。
ここが見つけるのに一番苦労した。上述の個人ブログに載っている曖昧な地図ではさっぱり分からない。
<総社愛宕山古墳>
一辺55メートルを測る大型の方墳である。
主体部は自然石の巨石を積み上げた両袖型横穴式石室で、玄室長7メートル、幅3メートル、高さ2.8メートルと県内でも有数の規模を誇る。玄室奥よりには石室主軸線と直交して、凝灰岩製の刳抜式家形石棺が安置されている。石棺の寸法は、蓋を含め高さ1.5メートル、長辺2.2メートル、短辺1.2メートルである。県内で家形石棺を使用しているのは当古墳と宝塔山古墳の2例だけで、共に総社古墳群内にある。7世紀前半の築造とみられる。(wikiより)
案内板こそ立っているが、整備はほとんどされていない。外見上はただの雑木林である。
おまけに薄暗く、奥に墓地があったりして、霊感ゼロの著者でも不気味である。
石室もとても入れたものではない。しかも入口に巨大な蜘蛛が巣を張っていたりして、近づくのも嫌だった。
しかし、上述の個人ブログの方は覗いてみたようで、奥にはガラス板がはめ込んであり、ガラス越しに刳抜式家形石棺が置かれているのが見えるそうである。
と思ったら、wikiに画像があった。
続いて「遠見山古墳」に向かった。
こちらは公民館の裏にあったが、そこへ至るまでの道がまた非常に分かり辛かった。
全長80mほどの前方後円墳だが、特に整備はされておらず、木々が生えた丘といっただけのものだった。
続いてはラストの「王山古墳」……と言いたいところだが、ここはこれまでの古墳と離れた場所にあり、例の個人ブログの曖昧な地図にも載っていなかったので、訪れなかった。
場所は交通量の多い県道の交差点にあって、著者もこの件道は利用するので走行しながら外観は見ている。
と言うより、「ここも総社古墳群の一つだったのか?」というのが正直な印象だが、いずれまた改めて訪れてみたい。
とりあえず、Googleマップのストリートビューより写真を掲載。
以上で、総社古墳群の紹介を終えます。
上述したように、県内最終末期の古墳群なので、古代豪族との関連はあまり無さそうだ。ただ、時代を下るに従って前方後円墳から方墳に変化していく過程が興味深い。
仏教文化の影響だろうが、やがて古墳時代は終焉し、国分寺や国分尼寺といった寺社の時代へ移って行く。
<オマケ>
この調査に出掛ける前に親の家(実家ではない)に立ち寄って、その後近くの「進雄神社 (すさのうじんじゃ)」に行ってみたら、ちょうど秋季例大祭の日で神楽をやっていた。
「太々神楽」と言って、内容は天照大御神の天岩戸隠れの神話を題材にしたもののようだった。