滋賀県大津市の大津城跡です。
大津城は、本能寺の変の跡、廃城となった坂本城にかわり、豊臣秀吉の命により天正14年(1586)から築城が開始されました。
浅野長政が初代城主となり、その後は増田長盛、新庄直頼など秀吉の重臣が入り、文禄4年(1595)には最後の城主となる京極高次が入ります。
そして、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの直前に、その前哨戦ともいうべき「大津城の戦い」が行われます。
京極高次は当初、石田三成の西軍に与しますが、関ケ原に向かう途中で西軍を離れて約3千の兵で大津城に籠城します。この突然の高次の裏切りに対し、西軍は毛利元康、立花宗茂ら1万5千の軍勢で大津城を攻めます。
9月7日から始まった猛攻に大津城は1週間持ちこたえますが、9月15日朝、ついに開城・降伏します。
しかし関ケ原の戦い当日まで立花宗茂らは足止めをされたため、関ケ原の本戦には間に合いませんでした。
戦後、京極高次はこの功績により徳川家康より若狭一国を与えられ、若狭小浜8万5千石の大名となりました。
翌慶長6年(1601)、膳所城が築かれ、大津城は廃城となりました。
大津城の建物や石垣は膳所城や彦根城に移されたといわれており、現在国宝となっている彦根城の天守は、大津城の四重五階の天守を三重三階に縮小したかたちの移築であることが、昭和32年(1957)の解体修理で明らかになっています。
現在、当時の様子をうかがうものはほとんど残されていませんが、昭和55年(1980)に少し離れた大津祭曳山展示館横の駐車場に外堀の石垣が発見されています。
先日ご紹介した「光る君へ」大河ドラマ館、石山寺のあとに訪問しました。
(というより通りかかりました)
石碑
京阪電鉄浜大津駅前の交差点にひっそりと石碑がありました。
縄張図
ちょうど石碑のあるあたりが本丸の跡で、本丸の外側に伊予丸、香集丸、奥二の丸、二の丸、三の丸と曲輪が配置され、内掘、中堀、外堀と三重の堀で囲われていた
壮大なものだったといわれます。
石碑のそばにある歩道橋に登ると公園とその向こうに遊覧船乗り場が見えました。
広場になっているあたりは埋め立てられたもので、当時はここから向こうはすぐ琵琶湖だったようです。
大津城の戦いでは、立花宗らの率いる西軍が南東にある長等山から大砲を打ち込み、籠城する京極高次と激しい戦闘が行われました。
この時に大津城の兵とともに石垣を守った穴太衆を描いた作品が2022年に第166回直木賞を受賞した今村翔吾さんの『塞王の楯』です。
少しでも作品の空気感に触れられるかなと思いましたが、立花宗茂らの率いる西軍が大砲を打ち込んだとされる長等山もここからはビルに隠れて見えませんでした。