山形城① | おおとり駆の城日記

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子供の頃からお城好き 今までに巡ったお城の感想 その他どうでもいい趣味のことなどあれこれ綴っていきます

山形市の中心部にある山形城です。

ここは、羽州街道と笹谷峠の合流点で、鎌倉時代から最上郡の中心として栄えました。

室町時代初期の延文元年(1356)斯波兼頼が羽州探題としてこの地に入部します。

兼頼は最上氏の祖と言われており、現在の山形城の本丸、二の丸付近に居館を構えます。

時代は下って戦国時代、慶長年間になると、最上家11代目当主の最上義光(もがみよしあき)が登場。

義光は、甥である伊達政宗と何度も戦ったライバルとしても有名です。

徳川家康と親交が深く、慶長5年(1600)の関ケ原の合戦では東軍につきました。

そして、北の関ケ原と言われた慶長出羽合戦で上杉氏に勝利し、その功により出羽57万石の大大名となり、山形城の三の丸部分を拡張するとともに、城下町を整備し、山形藩の基礎を固めます。


しかし、義光の死後、後継者争いが起こり、元和8年(1622)に最上家は改易。代わって譜代の鳥居忠政が入りました。

忠政は「どうする家康」にもメインキャラクターとして登場した伏見城の戦いで戦死したあの鳥居元忠の次男です。

忠政は現在見られるような石垣づくりの城郭へと大幅な改修を加えます。

この頃の山形城の総面積は235haもあり、東北地方ではもちろん最大規模、全国でも名古屋城に次いで5番目の広さを誇っていました。

本丸、二の丸、三の丸が、同心円状に配置された輪郭式平城で、本丸には天守はありませんでしたが、二の丸には天守代用の三重櫓が建てられました。

三の丸には重臣たちの屋敷が、城外には下級家臣の屋敷と寺院が城を取り囲むように置かれていました。


ところが鳥居氏以後もたびたび城主は変わり、次第に石高や格式が下がり、ついには5万石とかつての10分の1になってしまいました。

こうなると当初50万石規模で築かれた城の維持は困難となります。

江戸時代中期には本丸は使われなくなり、三の丸の西半分は田畑になってしまいました。

幕末にはかなり荒廃した状態だったといわれます。

明治になると陸軍歩兵三十二連隊の兵営敷地となり、城内の櫓や御殿はすべて撤去され、本丸の堀も埋められました。

明治39年(1906)に日露戦争勝利を記念して、城跡にソメイヨシノが植林され、以降現在まで桜の名所となっているほか、本丸、二の丸跡は現在霞城(かじょう)公園として整備され、市民の憩いの場所となっています。


発掘調査やかつての史料をもとに平成3年(1991)に二の丸東大手門、平成25年(2013)には本丸一文字門が木造で復原されました。


霞城セントラル

山形駅西口には駅から専用通路で直結した巨大なビルが建っています。

この23階には無料展望台があり、山形城を眼下に見下ろすことができます。


山形城全景

緑に囲まれた堀の内部には野球場や体育館がありますが、城内の整備復元が進めば、いずれこうしたスポーツ施設は城外に移転する計画もあるそうです。


では、霞城公園へ向かいます。霞城セントラルからは徒歩で10分ほどです。



二の丸堀

公園の南側には水堀があります。基本土塁ですが、途中から石垣になっています。


二の丸南追手門(南門)

巨大な石垣が左右に積まれ、典型的な枡形虎口となっています。

東北でこのような近世城郭の石垣に出会えるとは思っていませんでした。


本丸土塁と空堀

二の丸に入ると駐車場と芝生広場が広がり、しばらく北へ進むと、きれいに整備された本丸の土塁と空堀が現れます。

本丸の南側は土塁になっており、空堀もかつては水堀だったそうです。


本丸の東側まで来ました。こちら側にも石垣と堀が復元されていますが、北側と西側はまだ堀が埋まった状態です。


本丸一文字門

現存する絵図面をもとに、平成15年(2003)に石垣が、平成17年(2005)に大手橋、平成26年(2014)に高麗門及び枡形土塀が復原されました。


本丸一文字門は本丸の大手にあたり、櫓門・高麗門・枡形全体を指す呼び方です。

かつて右側の石垣の上には櫓門形式の一文字櫓があり、復原された高麗門と合わせて漢数字の「一」のように横長に見えたことからつけられた名前です。

ただ櫓門の一文字櫓については、復原に必要な写真や立面図などの史料が見つかっておらず、現段階では復原することができないそうです。


本丸内部では発掘調査がすすめられています。


山形市郷土館(旧 済生館 本館)

一文字門を出て右(南)へ行くと、西洋風の建物が目に入ります。

もとは明治11年(1878)に建てられた県立病院だったそうで、昭和44年(1969)にこの地に移築されたものです。

内部は当時の医学書や医療機器、郷土資料などが展示されています。



郷土館から東大手門へ向かう道路わきには石垣の展示コーナーが作られています。

石を切り出すところから、運搬、加工などのプロセスや矢穴や刻印の残された石などが説明板とともに並べられています。

同様の屋外展示は金沢城でも見たことがあります。


その2に続きます。



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