萩城(山口県) | おおとり駆の城日記

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山口県萩市の萩城です。

慶長5(1600)年の関ケ原の戦いで西軍の総大将を務めた毛利輝元は、戦後、徳川家康により、それまでの領地を大幅に削減され、日本海側の萩へと追いやられます。

輝元は慶長9(1604年)日本海に面した標高143mの指月山とその麓に築城を開始し、慶長13(1608)年ごろにはほぼ現在みられる城域を完成させたといわれます。


萩は阿武川の河口に形成された三角州にあり、北は日本海、東・西・南は山々に囲まれた要害の地でした。

輝元が入ったときは、現在とは異なり、指月山の南東部は沼地、東側にも海水が入り込んでいたといわれています。

地盤が軟弱で湿地帯の多い三角州は築城の立地としては好条件ではありませんでしたが、毛利氏が移転前の居城としていた広島城が同じく三角州にあった城であることを考えると、そこで培われた技術が活用されたと推測されます。

指月山山頂の詰丸(要害)と、山麓部の本丸(天守曲輪)、二の丸(二の曲輪)、三の丸(三の曲輪)で構成され、本丸の南側は内堀、北側は練塀で囲まれ、本丸の半分は萩藩庁で城主の住まいでもある本丸御殿が建てられていました。

以来、幕末動乱期の文久3(1863)年に13代藩主の毛利敬親が山口に藩庁を移すまでの260年間、ほぼ江戸時代を通じて萩城は毛利氏の居城であり続け、萩藩の政庁として機能しました。

明治6(1873)年に民間に払い下げとなり、天守をはじめ城内の建物の多くが解体されました。

現在、本丸跡が萩城跡指月公園として整備され、見事な石垣や堀が残されています。


萩城跡南にある駐車場に車を止め、ここから北側の二の丸南門跡へ向かいます。

この駐車場はかつて中堀のあったところのようです。


二の丸南門の道はカギ状に曲がっています。二の丸とはいえ正面玄関だけあって、巨石がふんだんに用いられた立派な構えです。「萩城下古図」によれば枡形虎口を形成しており、北側には大きな矢倉門が設けられていました。


毛利輝元公銅像

二の丸南門の入口に鎮座しています。輝元は戦国の雄・毛利元就の孫で、豊臣五大老の時代には中国地方8カ国112万石を領する大大名でしたが、関ケ原の戦いで石田三成により西軍総大将に担ぎ上げられ敗北、周防・長門の2カ国36万石へと減封されます。台座には「一文字に三つ星」毛利家の家紋が刻まれています。


「史跡 萩城阯」の石碑と天守台、指月山

二の丸を抜けると、萩城見学の入り口となる本丸門前の内堀に出ます。

内堀と天守台、背後の指月山が望めるベストの撮影スポットです。


本丸への橋は当時は太鼓橋(極楽橋)という木橋だったようですが、現在は石造りの橋になっています。

橋を渡った先にある料金所で駐車場前にあった旧厚狭毛利家屋敷長屋との共通券220円を払いましたが、今回は時間の関係で城跡だけの見学です。


本丸の広さは東西200メートル×南北146メートルとかなり広大です。残念ながら当時の建物は残っていませんが、現地を歩くとその広さを実感できます。ここに大きな本丸御殿が建っていたことが想像できます。


志都岐山(しづきやま)神社

本丸跡には、志都岐山神社が建立されています。明治11(1878)年に初代から12代までの歴代毛利藩主を祀るために建てられました。


雁木(がんぎ)

本丸の内堀沿いの石垣には長い雁木(がんぎ=石垣に設けられた階段のこと)が設けられ、有事の際には一斉に兵士が石垣の上に上がることが出来る構造になっています。関ケ原の戦い後に建てられた城ですが、十分実戦を意識した造りになっていることがわかります。二条城などにもありますが、これほど長大な雁木が現存している例は少ないのではないでしょうか。


合坂(ごうばん)

同じく本丸内堀沿いの石垣に見られます。雁木と同じように兵士が石垣の上に素早く登るためのV字型の石段で、姫路城や会津若松城などでも見ることができます。


多門櫓跡

内堀沿いの石垣の上には多門櫓が建ち、堀の向こうの敵を射撃できるようになっていたと思われます。礎石が残されていました。



天守台

天守台の上にも礎石が残されています。

この上にかつて五重五階の天守が建てられていました。

ベンチもあるので、季節のいい時期はここでお弁当を広げても気持ちよさそうです。


天守台石垣

高さは約10メートル。

上部はほぼ90度に近く、下の方は45度にも満たない緩やかな角度、美しい扇の勾配です。見た目だけでなく、軟弱な地盤に石垣を築くための工夫でした。


天守古写真

萩城天守は明治7(1874)年まで現存していたため、明治初期に撮影された古写真が複数残っています。

慶長13(1608)年頃に輝元によって築かれたと考えられ、五重五階、望楼式、外壁には白漆喰、屋根瓦には赤瓦を葺き、最上階には高欄をめぐらせていました。天守1階の外壁を外へ張り出させて全面に石落としを設けた、いわゆる「張り出し構造」が萩城天守の特徴です。手前には天守に続く付櫓が建っていたようです。

関ケ原で敗れ、大幅に減封された毛利輝元ですが、これだけ立派な天守を建てられたのはさすがは毛利家というべきでしょう。

高い建物のなかった江戸時代は城下町のどこからでもよく見えたと思われます。


天守台の上から極楽橋方面

お堀の向こうに見える白い建物は萩焼資料館。萩といえば江戸時代から続く萩焼が有名です。中には名茶器などが展示されているようです。


天守台から見た内堀

内堀はジグザグと折れ曲がる独特の形で、その中心に突き出すように巨大な天守台があります。古絵図と見比べると、内堀の形はほぼ当時のまま残されていることがわかります。


指月山

本丸北西部には指月山の詰丸(要害)へ向かう入口があります。詰丸跡には石垣や櫓跡、復元土塀などがあるようです。標高143mの山頂へは20分ほどで行けるとのことでしたが、遊覧船の時間が迫っていたので今回はパスしました。


そのほか本丸内には志都岐山神社のほか、旧福原家書院(萩藩の家老の屋敷)や花江茶亭(はなのえちゃてい:明治22年ごろに藩主の別邸にあった茶室をを移築したもの)東園跡(6代藩主毛利宗広が造った回遊式庭園)などもありますが、今回は時間の関係で残念ながらすべてパス。


萩八景遊覧船

城跡南の遊覧船乗り場から船にのって海側から萩城を見ることができます。

夕方だったこともあって他にお客さんがいない「貸し切り船」でした。


萩城は日本海に突き出すような立地にあるため、二の丸の東と西側は完全に海に面していました。特に二の丸東側の海に面して築かれた石垣は、高さ約4~5mの石垣が延々と北に向かって続いています。

ところどころに櫓が置かれ、石垣の上には土塀が一部復元されています。

遠目にはわかりませんが、塀には鉄砲狭間が穿たれているため「銃眼土塀」と呼ばれているそうです。

海から攻めこむ敵をここから迎え撃つためだったのですね。


指月山の北側は切り立った断崖で、こちらから敵が攻め昇ることは到底できそうもありません。

しかし、この日案内してくれた遊覧船のガイドさんは中学生くらいの頃、仲間同士で頂上からすべり降りてきたことがあるそうです。すごい。まさに昭和のわんぱく少年。


船が指月山の一番北の端まで来ました。

浜には岩がゴロゴロしていています。このあたりからも石を切り出した様子が今に残されています。


その2では萩城下町をご紹介します。