前週の千田先生に引き続いて、今回は小和田哲男先生の講演が岐阜関ケ原古戦場記念館で行われたので、関ケ原まで出かけてきました。
ついでにいくつか武将の陣地跡を巡ってきましたので、今回は関ケ原古戦場をレポートしたいと思います。
まず初めに訪ねたのは大谷刑部吉継の陣跡です。
大谷吉継は石田三成の盟友として知られていますが、実は徳川家康とも昵懇の間柄でした。慶長5(1600)年6月徳川家康の会津征伐に加わるために領国の敦賀(福井県)を発ちましたが、その途中で三成に挙兵の秘事を打ち明けられます。吉継は再三に渡り、挙兵は無謀で勝機はないと三成を説得しますが、最終的には三成の決意が固いことを知り、負けるのを承知で西軍に味方することに決めたといわれています。その後は西軍首脳の一人として、三成の横柄な性格を諫め、毛利輝元や宇喜多秀家を立てるよう薦めたり、北陸方面の調略を担い、多くの大名を西軍に勧誘しました。9月3日には三成の要請を受け、美濃に進出し、山中村に布陣します。吉継は正面の松尾山に陣をひいた小早川秀秋の動きを当初から不審に思い、寝返った際の備えをしていたといわれています。
15日関ケ原本戦の開戦後は後方で指揮をとり、戸田重政、平塚為広らと共に東軍の藤堂高虎や京極高知らと互角に戦いましたが、正午ごろ秀秋が寝返り、大谷隊に襲い掛かります。これを予測していた吉継は、兵力で圧倒する小早川の軍勢を3度にわたり押し返します。しかし、自らの指揮下にあった脇坂安治らが寝返るに至っては支えきれず大谷隊は壊滅、吉継は自刃します。大谷隊の壊滅で戦いの均衡は一気に崩れ、それまで善戦していた西軍諸隊は総崩れとなりました。
大谷吉継の陣跡は関ケ原の西方、旧中山道沿いにある山中山という標高160m(比高35m)の小高い山の上にあります。山の麓には10台ほどが止められる駐車場があります。
入口には若宮八幡神社の階段があり、その向こうにはJR東海道線の踏切があります。
踏切を渡ると神社の境内に入ります。
若宮八幡神社の創建年代は不明ですが、壬申の乱が起こった672年には大友皇子の戦線内にあったと案内板には書かれています。また寿永元(1182)年には、平知盛が1貫文を寄進したことや、翌年には源義経が2万騎を率いて京に向かう途中、戦勝祈願を行ったことなども書かれています。
また、この山は南北朝のころに「山中城」とも呼ばれた古城があり、吉継はここを改修して陣地を築いたとみられています。
社殿の右脇から、山に登って行く遊歩道があります。急な坂道を5分ほど歩くと道が二手に分かれています。右に進めば、小早川秀秋が布陣した松尾山を望む展望地となり、左に進めば陣跡、さらにその奥に行くと吉継の墓となります。
大谷吉継陣跡
思ったより狭いスペースです。
吉継は関ヶ原の戦いが行われた9月15日よりも12日早い、9月3日にはすでにこの付近に着陣し、地元の村人の協力も得ながら陣地の構築を開始したとの事です。ということは、既に8月10日に大垣城に入っていた石田三成は、大垣ではなく、最初から、ここ関ケ原が東軍との決戦の地になると想定していたことになります。また、吉継も当初はこの場所よりもう少し西側に陣を築いていたという説もあります。ところが、関ケ原本戦の9月15日朝になって、現在、石碑がある場所に布陣し直したといわれています。恐らくは、事前に小早川秀秋が寝返ると言う情報を得て、小早川の裏切りに備える為、陣を松尾山の正面に移転させたものと考えられます。
ちなみに、大谷吉継は、関ヶ原の戦いの直前に改名しています。そのため、石碑はすべて「大谷吉隆」となっています。
眺望地
大谷吉継の陣跡から東に60mほど離れたところが、松尾山が眺められる眺望地となっています。この写真ではわかりにくいと思いますが、頂上には小早川の旗が見えます。
小早川秀秋が寝返り15000人の軍勢が松尾山を駆け下りて、襲って来ると、大谷勢ははわずか500人の兵で応戦しました。
3度小早川の軍勢を押し返す奮戦を見せますが、脇坂安治・赤座直保・小川祐忠・朽木元綱らも東軍に寝返り、万事休す。
力尽きた大谷勢は壊滅します。
顔はめパネル
決戦当時吉継は敦賀城主5万石でした。
吉継は病のため、関ケ原の戦い当時はほとんと目が見えなかった、ということは史実のようですが、よくドラマやゲームで描かれるような白い頭巾をかぶっていたということはないようです。
大谷吉継の墓
陣地跡があるところから、北へ伸びる道を5分ほど進むと、山の中にひっそりと吉継の墓所が見えてきます。
真新しい花が供えてあります。訪れるファンがあとを絶たないことがわかります。
最期を悟った吉継は家臣の湯浅五助に介錯を命じ、また、病のため醜い首を敵に渡すなと自らの首を隠すよう言い残して自刃しました。
吉継の首は、五助が戦場から少し離れた場所に埋めたとされます。しかし、その直後に五助は藤堂高虎の甥である藤堂高刑に捕縛されます。
五助は主君の命を忠実に守る為「私の首を差し上げる代わりに、吉継の首をここに埋めたことを黙っていて欲しい」と頼みます。藤堂高刑はその頼みを受け入れ、湯浅五助を討ち取ります。
本陣で徳川家康は大谷吉継の首を差し出すよう高刑を問い詰めますが、高刑は主君を思う湯浅五助との約束を守り、かたくなにその場所を言わなかったといいます。
手柄よりも敵である五助との約束を守り通した藤堂高刑
また自分の命と引き換えに、主君の首を守った湯浅五助
この両者の思いに感銘を受けた家康は、高刑に槍と刀を与えたとされています。
右の大谷吉継の墓は、江戸時代初期に、藤堂家が建立したものです。左の湯浅五助の墓は、大正5年になって、五助の子孫が建てたものです。
顕彰碑
この銘文も藤堂家の子孫藤堂高紹伯爵の書によるものです。
関ケ原で戦った武将の中で顕彰碑が建てられているのも大谷吉継だけです。
明治から昭和戦前にかけて、主君である豊臣秀吉の恩に報い、共に秀吉に仕えた友・三成との義に殉じた吉継は、まさに武士道の鑑であると賞賛されるようになりました。実際、石田三成、宇喜多秀家、小西行長ら敗れた西軍武将の多くは、のちに捕らえられたとはいえ、一旦は関ケ原からの脱出しています。しかし、大谷吉継のみは、この時病のためすでに目が見えなかったと言うこともあり、戦場で自害という道を選択しました。その散り際の潔さが当時の軍国魂の発揚に利用されたともいえます。
ただ、現代でもそんな吉継の生き方に共感する人は少なくないのでしょう。
次回は島津義弘の陣地跡をご紹介します。