岩国城①(山口県) | おおとり駆の城日記

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山口県岩国市の岩国城です。



岩国城は毛利元就の孫にあたる吉川広家によって築かれました。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は領地を大幅に削減され、広島から日本海側の萩へと移封となりました。同時に一族であり毛利家存続に尽力した吉川広家も米子12万石から岩国に3万石で封じられました。


慶長6年(1601年)にこの地に入った広家はまず城山の麓に御土居と呼ばれる平時の居館を建築します。

翌年から山陽道を見下ろせる標高216m横山の山頂に有事のための築城を開始し、8年の歳月をかけて慶長13年(1608年)に岩国城を完成させました。


しかし、完成からわずか7年後の元和元年(1615年)一国一城令により、岩国城は廃城処分となります。広家は「周防国内には岩国城一城しかない」と幕府に訴えて城の存続を図りましたが、結局、毛利本家の意向に従い、岩国城は廃城となります。


さらに寛永14年(1637)の島原の乱の後、徹底的に破却させられたといいます。

島原の乱では廃城となっていたはずの原城に一揆軍が立てこもり、幕府軍も甚大な被害を出したことから、形ばかりの廃城ではなく、実質的に石垣が使えないようになるまで破城が行われました。


お城は廃城となりましたが、岩国は毛利家の支藩(厳密には藩ではありませんが)として、代々吉川家が治め、麓の居館でもある「御土居」は岩国藩の陣屋(政庁)として明治維新まで使われました。


現在の天守は昭和37年(1962年)に外観復元されたもので、錦帯橋からよく見えるよう、もとあった位置から約50m南側に移動し再建されました。


錦帯橋(きんたいきょう)

錦帯橋は国指定の名勝であり、東京の日本橋、長崎の眼鏡橋とととも日本三名橋のひとつです。世界的に見ても珍しい木造アーチ橋としても有名です。

延宝元年(1673年)岩国3代藩主の吉川広嘉が御土居と錦川を挟んだ対岸にある城下町をつなぐため、現在の錦帯橋の原型となる木造橋を架けましたが、錦川の洪水によりすぐに流失しました。しかし、翌延宝2年(1674年)に再建された錦帯橋は、改良や補強、定期的な架け替えを重ねながら、昭和25(1950)年の台風29号による洪水で流失するまで約270年間その姿を保ち続けました。翌昭和26年(1951年)には復旧工事が始まり、昭和28年(1953年)には工事が完了。コンクリート製での再建案もあったそうですが、市民からの強い希望もあり、木造で再建されました。 平成16年(2004年)には劣化した木造部分を架け替える「平成の架け替え事業」が約50年ぶりに行われています。


錦帯橋は有料の橋ですが、渡橋券とロープウェイ往復、岩国城のセット券を購入するのがお勧めです。


下から眺めると美しいアーチ橋ですが、実際に渡ると、思ったより高低差があり、階段になったアーチ部分を登ったり降りたり感が面白いです

ちなみに江戸時代、錦帯橋を渡ることができたのは藩士と一部の武士および一部の商人のみで、町人や農民はは許されていなかったそうです。


槍倒し松(やりこかしまつ)

錦帯橋を渡ると対岸に、斜めに生える大きな松の木があります。

江戸時代、大名が参勤交代などで他藩の城下を通る時は槍を倒すのが礼儀でしたが、ある時某大藩が岩国城下を通る際にそれを無視して槍を立てたまま堂々と通ったため、これに憤慨した岩国藩士がわざと橋のたもとに横枝が成長した松を植えて、槍を倒さないと通れないようにしたという言い伝えがあるそうです。

岩国武士の負けず嫌いを象徴するエピソードですね。


山麓地帯は吉香公園として整備されています。


公園の中央には3代岩国藩主吉川広嘉公の銅像が建っています。

初代藩主広家の孫で、学問、技術の分野にそれぞれの専門家を養成するなど岩国文化の開祖と仰がれる名君とされました。

この殿様が錦帯橋を完成させました。


佐々木小次郎像

巌流島で宮本武蔵と戦って敗れた、あの佐々木小次郎です。

吉川英治の小説「宮本武蔵」では小次郎は岩国の出身とされており、あの有名な「燕返し」を錦帯橋で編み出したと書かれていることから、この地に銅像が建っています。

しかし、史実では小次郎の出身地は諸説あるうえ、巌流島の戦いが行われたのは慶長17年(1612年)なので、錦帯橋が完成する60年も前のことです。

残念ながら岩国にまつわる小次郎のエピソードのほとんどは吉川英治の創作だそうです。


旧目加田家住宅

山麓には藩主の屋敷の他、家臣の住居が立ち並んでいました。

ここは初代城主・吉川広家の頃から仕えた家臣の屋敷で、現在のものは18世紀後半に建てられたもので、重要文化財に指定されています。残念ながらこの日は休館日で中を見ることはできませんでした。


香川家長屋門 (かがわけながやもん) 

家老香川氏の表門で、元禄6年(1693年 ) の建立と伝えられています。

岩国市の建造物としては最も古いものの一つで、当時の武家屋敷の構えをよく残しており、山口県の有形文化財に指定されています。

外観は自由に見ることができますが、内側は、現在も個人の住宅であり、立ち入ることはできません。



吉川家墓所

公園のはずれには、歴代の藩主の墓所があります。

初代藩主吉川広家公もここに眠っています。




錦雲閣(きんうんかく)

お堀のそばにあるので、隅櫓のような雰囲気です。

元々ここには三層の物見櫓がありましたが、明治初年に取り壊され、のちに吉香神社が建立された際に絵馬堂として建てられました。


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