もちろん日本100名城にも指定されています。
天正4年(1576年)織田信長の家臣で、越前を治めていた柴田勝家の甥である勝豊により築城されました。
天正11年(1583年)賤ケ岳の戦いで柴田勝家が羽柴秀吉によって敗れると、この地は丹羽長秀の所領となり、長秀は丸岡城主として青山宗勝を置きました。
慶長5年(1600年)関ケ原の戦後は、越前国には徳川家康の次男・結城秀康が入封し、丸岡城には秀康の家臣・今村盛次が2万6千石を与えられ入城しました。
慶長17年(1612年)今村盛次に代わり、福井藩の附家老本多成重が4万3千石で新たな城主となります。
元禄8年(1695年)4代重益のときに丸岡藩でお家騒動が起こり、本多氏は改易。代わって有馬清純が越後国糸魚川藩より5万石で入城し、以後、有馬氏が8代続いて明治維新を迎えました。
明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、天守以外は全て解体されました。
その天守も昭和23年(1948年)の福井地震のために倒壊してしまいますが、昭和30年(1955年)崩れた部材の70%以上を再利用して組み直し修復されました。
丸岡城を国宝に!
坂井市では丸岡城天守の国宝指定を目指す運動が行われています。
現在国宝に指定されている天守は全国で5つ(姫路、松本、犬山、彦根、松江)あり、そのうち松江城天守が最も最近国宝に指定されています(2015年)
その決め手となったのは築城年代が明らかになったことだったので、最古ではないものの、創建年代が絞り込まれたことによって、丸岡城も国宝指定の期待が高まっているのです。
歴史民俗資料館
丸岡城との共通券で入場できます。丸岡藩や本多氏、有馬氏に関係する資料が展示されています。
天守
独立式望楼型二層三階の天守です。戦国時代を象徴するような古式な外観からであったことから、かつては犬山城天守と日本最古の天守の座を争っていましたが、近年行われた調査によって江戸時代の寛永年間(1624年~1644年)に建てられたことが明らかになりました。
鯱瓦
天守へ登る石段の横には石材でできた鯱瓦が置かれています。
元々 江戸時代の鯱は木彫のものに銅板を張ったものでしたが、昭和初期の修理の際に屋根瓦と同じ石製に改めたものの、昭和23年の福井地震で落下、破損したものです。
現在屋根の上に載っている鯱は江戸時代と同じ木彫銅板張りのものだそうです。
水切り屋根
外壁から伝わった雨を土台に侵入させないための仕組み。これも現存天守では丸岡城だけにみられる特徴です。
建てられた天守が天守台より小さかったための工夫という説もあります。
天守にいた係の人に「スカートみたいで可愛いでしょ」と言われました。
ジオラマ模型
現存天守なので展示は少なめです。
二の丸と三の丸の間にはかつて巨大な五角形の堀がありましたが、現在はほとんどが埋められています。この堀を復元しようという計画もあるそうです。
石落しと狭間
外から見て出窓部分が石落しになっています。
階段その1
1階から2階に上る階段は65度あります。もちろん現存天守では最も急な階段です。
左右に補助用のロープが取り付けられています。
登りよりも下りのほうが怖いです。
2階の懸魚の裏側から
破風の中に窓がないとこの眺めはあり得ません。
階段その2
2階から3階部分の階段は67度ですが、上から下を見ると、ほとんど垂直に見えます。
最上階内部の様子
天守には通し柱がなく、1階が2-3階の望楼を支える構造となっています。
最上階には欄干がありますが、外には出ることができません。
その2に続きます。