事前の下調べが足りなかったせいで、城まではたどりつけたものの、駐車場や入城口がわからずウロウロ、結局周囲をぐるりと一周してしまいました。その結果わかったことは、線路で城郭が分断されていることと、城内に高校が2つもあることでした。
もっとも学校や役所が城内にあることは珍しいことではありませんが、市街地のど真ん中にあるにも関わらず、これだけの遺構が残っているということで当時の壮大さがわかります。
さて、大和郡山城は本能寺の変後、洞ヶ峠をきめこんだことで有名な筒井順慶によって築かれました。
その後、豊臣秀吉の異父弟である大和大納言豊臣秀長が100万石を領し、大きく城を拡張します。秀長は兄に倣って巨大で壮大な城郭を築こうとしたようです。
そう聞けば、なんとなく豊臣大坂城と縄張りが似ているような気がします。江戸時代には柳沢吉里がはいり、幕末まで柳沢氏の居城として存続します。
本丸にある柳沢神社には吉里の父、つまり5代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保が祀られています。
二の丸の入口には追手門(梅林門)と櫓が復元されています。これも近世の建築というよりは、豊臣秀長の時代の頃を想定して復元されたものだそうです。桃山建築にふさわしい豪奢な造りの門です。
天守台の石垣に組み込まれてる「さかさ地蔵」を見たいと思いましたが、残念ながら本丸は天守台石垣の修復工事中で立ち入ることができませんでした。もっともさかさ地蔵以外にも多くの石仏や墓石が石垣の一部になっているそうです。
線路沿いから見た櫓。