真田丸の謎 | おおとり駆の城日記

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言わずと知れた今年人気の大河ドラマ「真田丸」でついに登場した真田丸、その実像に迫った千田嘉博先生の「真田丸の謎〜戦国時代を城で読み解く〜」まだ半分しか読み終わっていませんが、大河ドラマが終わってしまう前に是非紹介しておきたい本です。


先日のブラタモリでも紹介されていましたが、大坂城は大阪平野の南北に伸びる上町台地という丘陵地の北端に築かれており、北東西は川や低湿地に囲まれているので防衛に適しているが、攻められるにあたっては南側が弱点である。従って、大坂の陣で真田信繁は南側に真田丸を築き、徳川軍を迎え撃ち、これを撃破し「日本一の兵(つわもの)」として大いに武名を上げたということはドラマでも描かれているとおりです。


ただ軍記物などで伝えられる真田丸は大坂城の出丸としてつくられたもので、江戸時代に描かれた絵図によるとその多くは本城と隣接する丸馬出(半円形)として築かれたもの、というのが定説でした。


ところがこの本の中で千田先生は馬出しではなく、本城とは堀を隔てた完全に独立した城、つまり「真田城」であったと推定しています。


そして、なぜ信繁はそのような城を作ることができたのか、ということを、真田や武田が作ってきた城の形状から推理しているのです。


敵前にぶら下がった孤立した城、そこにあえて徳川軍をおびき寄せ、機略を用いることによって、3千の兵で徳川勢1万を撃退したと結論づけています。
ちなみにドラマで登場した真田丸もこの千田先生の考証によるCGによるものです。


ドラマでは井上順演じる織田有楽斎の内通、大蔵卿局の浅はかな出しゃばりによって家康の罠にどんどんはまりこんでいく様子が描かれています。
歴史の結末を知っている我々にしてみる何であんな簡単に騙されるのかなと思いますが、実際は豊臣譜代の大名でもなく、実戦経験もほとんどない信繁が簡単に大坂方に信用されなかったため、策が採用されなかったということではないでしょうか。
そんな扱いを受けながらもなぜ信繁らが最後まで豊臣家に忠義を尽くし散っていったのか?その理由についてはもちろん想像の域を出ませんが、何らかの信念や想い、あるいはそうせざるを得なかった事情があって、命を捨てても最後まで戦うという道を選んだのでしょう。


ドラマの真田丸は城としての真田丸と真田家とその家臣たちを一艘の船にみたてて名付けられたそうですが、終わってしまうのが残念な、久しぶりに見応えのある大河だったと思います。

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