奥崎謙三は大正九年(1920年)二月一日兵庫県

明石市に誕生しました。

 

 小学校卒業後、神戸・西宮・芦屋の商店で住み込

みで労働をしました。

 

 昭和十六年(1941年)三月二十一日岡山工兵隊、

同年四月中支九江工兵隊に入隊し、十八年(1943

年)一月独立工兵隊三十六連隊要員として転属を

命じられ、ニューギニアの戦場に送られ、地獄の戦

線を生き残りました。

 

 原住民に「アメリカン・ソルジャー・カム・ガン」 と胸

を指して語り捕虜となりました。昭和二十一年(1946

年) 日本帰国を命じられる。「誰よりも上官を殴った男」

の豪胆で過酷な戦争を生き残り復員を成し遂げまし

た。

 

  日中戦争・太平洋戦争において大日本帝国を統治

し軍隊を統帥していた裕仁は、日中戦争で中華民国

を侵略しました。

 

 裕仁が統帥していた軍隊は中華民国南京において

三十万の中華民国市民を虐殺し、朝鮮人女性を軍の

慰安婦にして凌辱しました。 

 

 大日本帝国軍部の亜細亜侵略は世界に糺されまし

たが、裕仁統治の日本の暴走は止まりませんでした。

 

 

 昭和十六年(1941年) 十二月八日連合国とも戦う

太平洋戦争が開戦しました。

 

 天皇裕仁は敗戦が決定的になっても、降伏後の自

 身の安全がわからず敗戦決定に迷い、その逡巡の

時 期昭和二十年(1945年)に沖縄戦が起こり、連合

国は八月六日・九日に広島・長崎に原子爆弾を投下

し沢山 の市民が虐殺されました。 

 

 裕仁は八月十五日にポツダム宣言を受諾したこと

を発表しました。

 ニューギニア戦線では敗戦後に人肉食事件で兵士

が銃殺されていました。  

 

 奥崎謙三は帰国後バッテリー商として勤務していまし

たが、昭和三十一年(1956年)金銭トラブルから 不動

産業者延原一夫を刺殺し懲役十年の判決を受けまし

た。  

 昭和四十四年(1969年)一月二日、皇居一般参賀で、

裕仁の戦争責任を糾弾し、「ヤマザキ、天皇 を撃て!」

と叫んでパチンコ玉を狙撃しました。パチンコ玉は天皇

の身体には当たらず。逮捕され一年六か月の判決を受

けました。  

 この事件は、日中戦争・太平洋戦争で沢山の地球人を

殺害した裕仁本人に対して初めてその罪を糾弾したもの

でした。

 

 明治三十四年(1901年)四月二十九日裕仁は誕生し

ました。六十七年の月日が経りましたが、裕仁親王・摂

政裕仁・天皇裕仁の戦争責任を文書や発言で語る存

在は勿論居たが、命裕仁本人に向かって発せられた

ものではありませんでした。  

 だが、奥崎謙三は堂々と本人に対してパチンコ玉を

投げて糾弾しました。

 

 奥崎謙三は勇気をふりしぼって、戦争を起こ
して、外国人を殺害し日本人を戦死させた、裕
仁を叱り飛ばしました。
 
 

 謙三によるパチンコ玉狙撃の戦争責任糾弾

から六年九か月二九日の昭和五十年(1975年)

十月三十一日、宮殿石橋の間において、裕仁

と皇后良子後の香淳皇后の記者会見が開催

されました。 自身の戦争責任と広島原爆投

事件について記者から質問があり、裕仁は

ふざけた回答をして責任から逃げました。

 

 

 

 

 

 

 

   記者「陛下はいわゆる戦争責任について、

       どのようにお考えになって

       おられますか?」     

 

   裕仁「そういう言葉のアヤについては、

       私はそういう文学方面はあま

       り研究していないので、よく分

       かりませんから、そういう問題

       についてはお答えができかねます。」   

 

   記者「陛下は、これまでに三度広島へ

       お越しになり、 広島市民に親

       しくお見舞いの言葉をかけて

       おられる訳ですが、戦争終結に

       当たって、原子爆弾投下の事

       実を、どうお受け止めになりま

       したでしょうか?」  

 

   裕仁「原子爆弾が投下されたことに

       しては遺憾に思っていますが、

       こういう戦争中である事ですか

       ら、どうも、広島市民に対して

       は気の毒であるが、やむを得

       ない事と私は思っております。」 

 

 

 戦争責任を「言葉の綾」と誤魔化し、「文

学方面」の事柄 と決めて答えられないとし

て逃げました。

 

 広島の民が原子爆弾で虐殺されたことに

対して「やむを得ない」とその死を冒涜しまし

た。これが大日本帝国統治者であり、大日本

帝陸・海・空軍 を統帥していた大元帥だった

男の言葉である。裕仁を守る為命を捨てて戦

った帝国臣民を裏切りました。

 

 

 テレビ局の放送会社の視聴率獲得が激しい

のでどの番組を見ているかは言えませんと戦争

犠牲者愚弄の後冗談を言う。

 

 阿呆馬鹿と言わざるを得ません。

 

 このような卑怯な馬鹿者の為に沢山の地球人が

戦争で命を散らしたのです。

 

 

 

 

 この記事は平成二十九年(2019年)一月一日

の朝日新聞ですが、裕仁を平和主義者とする捏

造記事であります。

 

 昭和五十年(1975年)十月三十一日裕仁が戦

争責任を「言葉の綾」と逃げ、原子爆弾に虐殺さ

れた広島の人々に「やむを得なかった」と愚弄・

侮辱した言葉は省略されている。

 
 小林よしのり・原田眞人・半藤一利・保阪正康は
「昭和天皇は平和主義者で、太平洋戦争開戦前に
戦争を止めようとしたが、軍部に押し切られた。終戦
に漕ぎ着けて下さったのは陛下の聖断のおかげで
ある」という嘘を喚いていますが、騙されてはいけま
せん。
 NHKの裕仁擁護番組同程度の捏造・嘘番組です。
 
 裕仁は戦争に反対等していません。
 
 

 昭和十二年(1937年)十二月十四日大日本

帝国統治者裕仁は、「中支那方面ノ陸海軍諸

部隊カ上海付近ノ作戦ニ引続キ勇猛果敢ナル

追撃ヲ行ヒ首都南京ヲ陥レタルコトハ深ク満足

ニ思フ此棟将兵ニ申シ伝ヘヨ」と語り、部下の

軍人の南京侵攻を喜んでいます。

 つまり南京大虐殺の犯人は裕仁なのです。

 
 
 戦争を起こし亜細亜を侵略し、沢山の日本人・
外国人を戦死せしめた犯罪者は裕仁天皇制で
す。
 昭和五十年(1975年)の新聞は裕仁の暴言に
対する民の怒りの声を伝えています。これは気骨
があるとは言えない。当たり前の事です。
 
 令和四年(2022年)の現代のほうが、皇室神格化
の忖度がマスコミ意識に増しているように思えます
ね。
 
 この極悪制度天皇制を廃棄しなければ日本の平
和責任は果たせません。
 
 
 天皇制・皇室・君が代・日章旗・旭日旗・日米
安保・原発・カジノ・靖国神社を廃止しよう。

 

 

 昭和五十七年(1982年)四月二十九日丸の内
交差点において奥崎謙三は裕仁八十一歳誕生
日に太平洋戦争戦死者の慰霊祭を行いました。

  奥崎「奥崎謙三は此処において、天皇誕生日

     のこの日、天皇裕仁を八十一歳まで在位

     せしめてきたこの天皇裕仁及びその一味

     の為に犠牲になった無数の人々の霊を慰

     める為に。今日ここにおいて私の所属し

     ておりました独立工兵第三十六連隊は、

      ニューギニアにおいて連隊長以下百パ

      -セント近く飢え死に致しました。

      私にとって立派な人間とは神の法に

      従って人間が作った法律を恐れず、

      刑罰を恐れず、本当に正しいことを

      永遠に正しいことを、実行することを

      最高の人間だと思っているんであり

      ます。」

 

 遠藤誠弁護士を囲む会が法曹会館で開催され、謙三は

スピーチを為しました。

 

    

   奥崎「わたくしは一般庶民よりも法律の被害

      多く受けてきましたので、日本人の中

      では法律の恩恵を最も多く受けてきま

      した、無知・無理・無責任のシンボルで

      あります天皇裕仁に対して、先程丸山

      先生が仰って頂きましたように、四個の

      パチンコ玉をパチンコで発射致しまして、

      続いて、天皇ポルノビラを、銀座・渋谷・

      新宿のデパート屋上からばらまき、その

      二つの刑事事件に関わった法律家であ

      るところの、二名の判事と八名の検事の

      顔に、小便と唾をかけて思いきり罵倒致

      しました。例えばこの法曹会館の横に並

      んでおります東京高等裁判所の刑事法

      廷におきましては、裁判長に向かって手

      錠をはめられたまま、『貴様は、俺の前

      で、そんな高い所に立っている資格は

      ない。降りてきて土下座をさらせ!』と怒

      鳴りました。そして、退廷を命じられまし

      て、今度は引き続いて、午後に監置裁判

      が行われましたが、今度はわたくしは、『俺

      の前で土下座をするのは勿体無い。穴

      を掘って入れ!』と申しました。そういう

      ことは独房生活を十年九か月送ってきま

      したわたくしには屁の河童であります。」

 

 
 
 奥崎謙三の裕仁戦争責任・ニューギニア戦線
調査の記録は、原一男監督によるドキュメンタリ
ー映画『ゆきゆきて、神軍』に録画されています。
 

 『ゆきゆきて、神軍』  

 映画  122分 トーキー カラー  

 昭和六十二年(1987年)八月一日公開  

 製作国日本  製作疾走プロダクション  

 製作小林佐智子  撮影原一男  録音栗林豊彦  

 出演     

 

 奥崎謙三   村本政雄

 奥崎シズミ 

 監督原一男  

 

 ☆鑑賞日時☆

 昭和六十三年(1988年)二月二十日

 ルネサンスホール 

 令和元年(2019年)八月三十一日

 京都シネマ

  ☆

 令和三年(2021年)十二月三日

 デジタルリマスター版 DVDリリース

 ☆

 

 『ゆきゆきて、神軍』において奥崎謙三は

平和を希求して戦争の残酷さを探求します。

 

 

 昭和六十四年(1989年)一月七日裕仁は

八十七歳で死亡しました。自身が虐殺した

亜細亜諸国の犠牲者や自身を守る為に

戦死した大日本帝国政治家・兵士に一言

の謝罪すら口にせず、戦後象徴として民の

税金で贅沢暮らしを犯しました。

 

 宇宙史上最悪の虐殺者です。

 

 平成十七年(2005年)六月十六日奥崎謙三

は八十五歳で死去しました。

 

 奥崎謙三の闘魂は『ゆきゆきて、神軍』や

著書の中に今も燃えています。

 

 「ヤマザキ、ピストルで天皇を撃て!」と語り

パチンコ玉を投げた謙三の勇気に敬意を表し

ます。

 

                         合掌